タイトル: 「義の実とは」 神奈川県 S・Fさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのS・Fさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみに聞いています。
さて、早速ですが聖書の言葉について分からないことがありますので、質問させてください。それはフィリピの信徒への手紙1章11節に出てくる『義の実』という表現です。『義の実』とは一体なんでしょうか。それはガラテヤの信徒への手紙の中に出てくる『御霊の結ぶ実』というのと同じでしょうか。
また、『イエス・キリストによって与えられる義の実』とありますが、『イエス・キリストによって与えられる』のは『義』なのでしょうか、それとも、『実』なのでしょうか。それとも両方なのでしょうか。信仰義認という考えからすると、与えられるのはキリストの義で、その義に基づいてわたしたちが結ぶ実が、『義の実』と考えてよいのでしょうか。その辺のところがよくわからないので教えてください。よろしくお願いします。」
ということなんですが、S・Fさん、ご質問ありがとうございました。久しぶりに聖書そのものに関するご質問をいただき、嬉しく思います。S・Fさんが細かい点にまで心を留めながら聖書を学んでいらっしゃる姿勢に触れることが出来たような気がします。
さて、一般的なことですが、聖書の言葉を理解するということは、先ず聖書世界という独特な思想文化全体を理解する必要があります。これは聖書の世界ばかりではなく、どんな文献でもそうです。言葉の意味というものはその言葉が出てきた歴史的文化的な背景に大きく依存しています。
それからもう一つ大切なことは、きょうご質問に出てきた言葉は、パウロが書いた手紙の中に出てくる言葉です。聖書全体と照らし合わせて理解することも大切ですが、特に、特にパウロが書いた何通かの手紙に照らし合わせて、パウロの中でどういう使われ方がされているのか、そのことも考えなければなりません。
最後に、ご質問の言葉『義の実』そのものが出てくるフィリピの手紙という文脈の中で何を言おうとしているのか、そのことが検討されなければなりません。
統計的なことだけを言えば、『義の実』という表現は、パウロが書いた手紙の中には、ここにしか出てこない表現です。新約聖書全体でも、ヤコブの手紙3章18節と、あともう1箇所やや分かりにくいですがヘブライ人への手紙12章11節に出てきます。
旧約聖書にまで広げて検索したとしても、アモス書6章12節に1箇所だけ出てくるくらいです。新共同訳聖書では「恵みの業の実」と訳されています。
統計的な意味からだけ言えば、『義の実』という表現はとても珍しい表現で、他と比べて理解しようにも比較の対象がないように思われるかもしれません。しかし、この言葉の意味を理解するのはそれほど大変なことではないような気がします。
さて、それでは後半に行く前にここで一曲聞いていただきたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
きょうはフィリピの信徒への手紙1章11節に出てくる『義の実』の意味に取り上げています。
前半でも指摘した通り、『義の実』という表現そのものは聖書の中に数回しか出てきません。パウロ書簡に限って言えば、フィリピの手紙にしか出てきません。
しかし、「義」という言葉も、「実を結ぶ」という考え方も、聖書の中にはたくさん現れる表現です。
聖書の中では人生の報いや結果をしばしば植物が実を結ぶことに譬えて表現されます。その典型的な例は、詩編1編に表現されています。
「その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:3)
預言者イザヤの言葉によれば、イスラエルは期待したような善い実を結ばないブドウだといわれます(イザヤ5:2)。旧約聖書の中で唯一『義の実』という言葉が出てくるアモスもそういう比ゆ的な意味で「実」という言葉を使っています。
「お前たちは裁きを毒草に 義の実を苦よもぎに変えた」(アモス6:12)
主イエス・キリストもまた「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ7:19)とおっしゃって、実を比ゆ的に使っています。
パウロが「義の実」という表現を使っているのには、こうした聖書全体に見られる思想を受けてのことです。
さて、ご質問の中にありましたが、パウロは「イエス・キリストによって与えられる義の実」という表現を使っていて、日本語で読むとキリストが与えるのは「義」なのか「実」なのか、それとも両方を含めているのかはっきりしません。これも原文のギリシャ語に当たってみればとても簡単なことですが、パウロがここで言おうとしているのは「イエス・キリストによって与えられる」という表現が修飾しているのは「実」という言葉です。そして、その実がどんな実かと言うと「義の実」であるといわれているわけです。もっともこの場合、「義の実」というのが「義がもたらす実」ということなのか、「義という実」のことなのか、文法的にはどちらともありえる解釈です。
ところで、同じフィリピの手紙の3章9節には「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」という表現が出てきますから、結局パウロにとっては「義」も「義の実」もキリストを通してもたらされるものという理解なのです。
では、ガラテヤの信徒への手紙5章22節に出てくる「霊の結ぶ実」あるいは「御霊の結ぶ実」との関係はどうなのでしょうか。ガラテヤの手紙でパウロが対比しているのは、肉の結ぶ実に対して、霊の結ぶ実を列挙しているということです。霊の結ぶ実は肉の結ぶ実の対極にあるということができると思います。
それで、パウロがフィリピの手紙の中で「義の実」ということを挙げているのは、フィリピの教会の信徒が「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となりますように」という祈りの中でのことです。そのように「清い者、とがめられるところのない者」となるということは、パウロによれば「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受け」取ることによって可能なのです。つまり、キリストがもたらす義の実は、信仰者を清い者、とがめられるところのない者へと変えていくわけですから、結果としては御霊の結ぶ実と同じように、人を肉がもたらす実と対極にあるものへと変えていくことになります。