タイトル: 「讃美歌について」 ハンドルネーム・クリームさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・クリームさんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「山下先生、はじめまして。番組をずっと前から聴いている者です。いつも興味深く楽しみに聴いています。
さて、わたしも質問してみたいことがあり、きょうはメールしました。それは礼拝で歌われる讃美歌についてです。わたしはほとんどほかの教会の礼拝に出席したことがないので、自分の教会で慣れ親しんできたいわゆる『讃美歌』が一番落ち着いた気持ちで歌うことが出来ます。しかし、たまにですが、礼拝以外のキリスト教の集会に出て、いろいろな賛美があることに驚かされます。
別に他の人たちが歌う賛美をどうこう言うわけではないのですが、心から同じ気持ちで歌える賛美とそうでない賛美があります。
いったい讃美歌の基準のようなものというのはあるのでしょうか。どういう基準で作曲されたり歌われたりするのでしょうか。そのあたりのことを教えていただけると嬉しく思います。」
ということなんですが、クリームさん、はじめまして。お便りありがとうございました。クリームさんは長く礼拝に通っていらっしゃるのでしょうか、いわゆる『讃美歌』に慣れ親しんでいらっしゃるんですね。私自身のことをいって恐縮ですが、わたしもクリームさんと同じで、いわゆる『讃美歌』に慣れ親しんできました。けれども、いわゆる讃美歌以外の聖歌やワーシップソングにも触れる機会があって、好きな歌はたくさんあります。また、ゴスペルやギター片手にキャンプなどで歌われる賛美の歌も大好きです。ただ、もう高校生時代や学生時代とは違って、あんまりノリノリになって歌うというのは、ちょっと気が引けてしまうということもあります。
さて、一口に賛美の歌といってもいろいろあると思います。先ほども挙げましたが、キャンプなど特別な機会に同じ年頃の人だけが集まって、ギターやドラムに合わせて歌う賛美もあれば、日曜日の公同の礼拝の中で歌われる賛美もあります。もちろん、それだけでどちらに軍配が上がるかなどいうことのできるものではありません。
その場合、メロディやリズムなど曲の問題もあるでしょうし、伴奏に使われる楽器の問題もあるでしょうし、また、曲でも楽器でもない、歌われる歌詞そのものの問題もあると思います。もちろん、歌詞が聖書の教えから明らかに外れているものは問題でしょうが、歌詞が聖書的であれば、曲はどうでもいいのかというとそうでもないような気がします。
いったいどんな基準で賛美の歌というものを考えたらよいのか、後半でもう少し詳しく取り上げたいと思います。
その前にここで一曲聞いていただきたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
賛美の歌の問題を取り上げていますが、ふさわしい賛美の歌とはどういう基準で選ぶべきなのか、考えてみたいと思います。ただ、賛美の問題を取り上げるには、あらかじめ話題を限定しておく必要があるように思います。
これからお話することは、個人的な礼拝や特別な賛美集会で歌われる賛美の歌のことではなく、主の日に守られる公同の礼拝のことを念頭においてお話したいと思います。
先ほど、前半で、賛美の歌として、聖書の教えに適っているということが大切であるといいました。それは当たり前のことと受け止められていると思いますが、しかし、賛美歌の好みということになると、歌詞の内容よりも曲や使われる楽器の方がその人の好みに影響しているという場合が多分にあるのではないかと思います。それは突き詰めて考えると、賛美の問題ではなく音楽の好みの問題ということになってしまいます。17世紀のバロック調音楽が好きなのか、それとも、20世紀のアメリカ風カントリー調の曲が好きなのか、そういう問題です。
もっとも、歌詞さえ問題なければ、曲はどうでもいいのか、それぞれの趣味趣向に任せていいのか、というとやはりそうではない面もあると思います。曲や楽器はその賛美が歌われる状況や背景と密接に関わってくるはずですから、全然無視してよい問題ではありません。
もちろん、人間の感性と言うのは千差万別で、平均的な好みというものを定めることは出来ません。また、それは時代によっても変わるものでしょう。しかし、いわゆる主の日に守られる公同の礼拝で歌うことのできる賛美歌のメロディーは礼拝という場所の状況と背景にかなり左右されるはずです。そこにはあらゆる年齢の人が集まります。お年寄りもいれば若者もいます。悲しみのどん底にいる人もいれば、嬉しくて嬉しくてたまらない気持ちの人もいます。そういう人たちが同じ気持ちになって、心を一つにして歌うことができる曲であるべきです。それが具体的にどんな曲なのか限定は出来ないかもしれませんが、しかし、そういう限定があることをいつも頭の中に入れて、公同の礼拝で歌われる賛美選ぶことは一つ大切だと思います。
さて、メロディーのことはさておき、もう少し、歌詞のことを取り上げたいと思います。先ほどから何度もいっていますが、賛美歌が賛美歌であるためには、歌われる歌詞が大切であることは言うまでもありません。しかし、歌詞が聖書的であるということは歌詞が聖書の言葉そのものでなければならないということではありません。極端な例では、旧約聖書の詩編だけが礼拝で歌われるにふさわしい歌詞だという考えを持った人たちもいます。確かに詩編は素晴らしい賛美の歌で満ちています。けれども、そこにはキリストの救いや恵みを直接歌ったものはありませんから、はやり、新約時代を生きるクリスチャンにとっては詩編歌だけでは物足りません。実際、新約聖書の中にも初代教会の賛美歌ではなかったかと思われる部分があることが知られています。たとえば、フィリピの信徒への手紙2章6節以下にでてくる言葉がそうです。こうした例を考えると、はやり新約聖書時代にふさわしい賛美歌は次々と生まれてくるべきでしょう。
ただ、この場合にも公同の礼拝という場を考えると、何よりも神が神であるがゆえに賛美されるということが歌詞の中心に来るべきでしょう。個人の経験や証を歌った歌に素晴らしいものがあることはよく知っています。しかし、みんなが同じ気持ちで主を賛美する公同の礼拝の場と言うことを考えると、歌詞にもそれなりのふさわしさが求められるのではないでしょうか。
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