BOX190 2004年3月3日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「霊感ってあるのでしょうか」  K・Nさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はK・Nさんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 先日この番組で「前世って?」という質問がありましたが、私も長年疑問に思っていることがあり、勇気を出して聞いてみようと思いました。
 まずは自分についてお話しなくてはなりません。実は私は幼少の頃から他の人には見えないものが見えていました。それは、多分巷でいうところの「霊」や「妖精」のようです。ずっとそういったものが見えていて、時には見えたものと会話も出来ていて、それが、当たり前だったのです。
 ある程度大きくなってからは、「私は狂っているのだろうか?幻が見えているのだから」と、大まじめに悩み、苦しんできました。
 小学校の頃から少しずつキリスト教に興味をもちはじめた私は、しかし、キリスト教を知っていくにあたって、大きな壁にぶつかりました。
 問題なのは、「キリスト教」的に、私はどうなってしまうのだろう、どう進めばいいのだろう、という事なのです。
 宗教を選択するにあたって、「仏教」などを選べば、私はこんなに苦しむ必要はないのかもしれません。でも、そうしたくはない自分がいるのです。
 数年前、教会に通っていた事もありました。しかし結局、この自分自身の身の置き所の無さのようなものを感じてしまい、通うのをやめてしまいました。教会にいて、「あぁ...こんなものが見えている私はここでは受け入れてもらえないんだろうなぁ。」と孤独感をかみ締めているしかなかったからです。
 自分の「気のせい」にしてしまうには、無理があるのです。「気狂いで幻覚が見えている」という方が、まだしも納得できる位です。
 自分が見えてたり話せていたりするものについて、だまって教会に通い続ける事はできたかもしれませんが、疑問を抱えたまま黙って通い続けるには、私は弱く、苦しいのです。
 重く、解りにくい文章で大変申し訳ありません。どうか、こんな私が教会に導かれるような、納得のいくご回答を下さいますよう宜しくお願い致します。
 キリスト教的には「異端者」だ、というはっきりとした否定でもかまいません。
 覚悟をして、ご回答お待ち致しております。

 ということなんですが、K・Nさん、メールありがとうございました。お便りを読んでいて、人には思いもかけない悩みがあるものだと感じました。いったいどう考えたらよいのか、後半でご一緒に考えてみたいと思います。

その前にここで一曲聞いていただきたいと思います。

 ==放送では、ここで1曲==

 さて、いわゆる「霊感が強い」というのでしょうか、あるいは「霊視能力がある」というのでしょうか、そういう問題について取り上げています。
 今回のご質問のポイントは、そういう現象に悩んでいるご本人からのご質問ということです。そして、それをキリスト教的にどう考えるかということですね。
 まず初めに「霊が見える」とか「妖精が見える」というK・Nさんの体験そのものをわたしは真面目に受け取りたいと思います。ウソや出任せでそんな質問をしているのないと信じています。ただ、問題の一つはその体験をどう解釈するかということです。
 それには大きく分けて2つの立場があるように思います。まず一つは、その現象を科学的に解明しようとする立場です。例えば特定の低周波を人間に浴びせると不安な気持ちが増長されて、幽霊のようなものが感じられるということは科学的に知られています。
 あるいは、脳の内部で何らかの化学的変化が起ると幻覚や幻聴が見えたり聞こえたりするということもある程度科学的に知られています。
 あるいは他にも科学的に説明できることがあるかもしれません。もし、K・Nさんの体験がこうした科学によって解明されるようなものであるとするならば、そしてその原因を取り除くことができるようなことであれば問題はとても簡単です。もちろん、キリスト教の立場からも、このような科学的なアプローチは歓迎されるべきだといえます。
 さて、問題なのはもう一つの立場です。それは、霊や妖精の存在を前提とした上で、すべての人にではないけれども、ある人には「霊感」とよばれる能力があるという立場です。
 聖書的に言えば、妖精や妖怪の存在は別として、霊の存在は否定していません。たとえば、旧約聖書サムエル記には、サウル王が死んだサムエルを霊媒師を介して呼び出したという記事が出てきます(サムエル上28:7以下)。
 また、復活のイエスを見た弟子たちは、「亡霊」を見ているのだと思ったと聖書は記しています(ルカ24:37)。この記事は当時の弟子たちが霊の存在を信じていたことをうかがわせます。
 死者の霊ばかりではなく、聖書は天使のような霊的な存在が姿をあらわしたことや、悪霊のことも語っていますから、聖書は霊の存在そのものを前提としています。
 けれども、少なくとも死者の霊に関しては、モーセの律法の中で、口寄せや霊媒の行為によって呼び出したり伺いを立てることは禁止されています(レビ19:31; 申命記18:11他)。
 以上の聖書の記事を考え合わせるとすれば、霊の存在そのものがある以上、その霊的な存在が人間と関わる可能性がゼロではないということは理解できると思います。また、聖書の記事では実際そういうケースが見受けられます。けれども、そのような霊的な存在との遭遇が、人間にとってすべて益になるとは限りません。特に死者の霊に伺いをたてる行為は、まことの神の啓示をないがしろにすることですから、占いなどと同様、旧約聖書の中で明白に禁じられています。
 普通の人には見えないものが見えるからといって、それがK・Nさんをキリスト教から遠ざける原因になっているのだとしたら、それはとても残念なことです。目の見えない人も、目が見える人も、そして、普通の人には見えない物が見える人も、神はキリストの福音へと等しく招いていらっしゃるのではないでしょうか。

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