タイトル: 「信仰か行いか」 ハンドルネーム・羊さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・羊さんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「山下先生、何時も番組を楽しみ聞いています。質問の答えそのものにも教えられますが、それよりも、考え方の筋道や聖書の読み方に触れることができ、今のわたしにはこの番組がとても役に立っています。
さて、色々な方たちの質問に勇気付けられて、わたしも質問してみたいと思い、メールしました。
その質問とはパウロの教える信仰義認とヤコブの手紙との関係です。パウロはローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙の中で、『救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない』ということを強調しています。わたしも、それはその通りだと信じています。しかし、ヤコブの手紙では『自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか』と記されています。いったいこのヤコブの言葉とパウロの信仰義認の教えとはどう調和して考えたらよいのでしょうか、教えてください。よろしくお願いします。」
ということなんですが、羊さん、メールありがとうございました。パウロの信仰義認の教え、つまり、信仰によってのみ義とされ救われるという教えと、ヤコブがその手紙の中で言っていることとは、相容れないように思われる、というのは昔からある論争の一つだと思います。信仰義認の教理を聖書から学んで誰よりも強調した宗教改革者マルティン・ルターがヤコブの手紙のことを「藁の書簡」と呼んだのは有名な話です。確かに字面だけを比べてみると、明らかに相反することを言っているように受け取れてしまいます。パウロは救いにとって行いよりも信仰が大事だと強調していますし、ヤコブは行いの無い信仰は意味がないと言っています。これは明らかに相反することのように思えます。信仰によってのみ救われるということを強調し、ローマカトリック教会から決別したルターにとっては、ヤコブの書簡ほどやっかいな書簡は無かっただろうと思います。藁の書簡と呼んだのも分かるような気がします。
さて、この問題を解決するためには、字面だけにとらわれていてはならないような気がします。同じ「信仰」という言葉を使っていても、その意味するところは必ずしも同じではありません。また、「善き行い」といってもそれがどういう文脈の中で使われているのかによって、言葉としての方向性が違ってきます。ただ、同じ単語が使われているからというそれだけの理由で、二つの事柄を比較することは出来ないのです。
では、そのことについて、後半でもう少し、詳しく取り上げたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
新約聖書のパウロとヤコブの主張、信仰か行いかということについて取り上げています。
前半でも触れたとおり、この二人の主張を吟味するには、単語の字面ではなく、その言おうとする意味を正確に理解しなければなりません。普通、信仰という時には、神について知っている知識と神を信頼し従おうとする意志の両面が問題になります。
信仰に知識は関係ないかというとそうではありません。何も知らないのに信じることなどできるはずがないからです。もし、知識が無いのに信じているとすれば、それは盲従に過ぎません。もちろん、ここでいう知識というのは高度な神学的な知識という意味ではありません。
しかし、神についての知識さえあればそれが信仰なのかというとそうでもありません。それだけでは、ただ単に神についての情報をもっているだけに過ぎません。神が唯一なのか多数なのか、神は正義なのか悪なのか、神はどうやってこの世界を造ったのか、それらは聖書の中に情報として教えられています。その情報をいくらたくさん蓄えたところで、それが信仰深い人を作るわけではないことぐらいは、すぐに直感できるはずです。
そこでヤコブにとっての信仰とは、いったいどういう意味なのか、ヤコブの手紙2章19節でこういわれています。
「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」
ヤコブが「信仰」という時、そこで問題にされているのは悪霊が神について情報として持っている知識と同じレベルの「信仰」なのです。いえ、信仰とは名ばかりで、信仰には価しないただの情報に過ぎないのです。悪霊は神が唯一であると信じ、おののきはしますが、神に信頼して従おうとする意志はありません。そういうものは、そもそも信仰とは言わないのです。それをあたかも信仰だと履き違えている人々をヤコブは戒めているのです。神に従わない信仰、神の戒めである愛に反する信仰など、言葉の矛盾だとヤコブは言いたいのです。
他方、パウロが使う「信仰」という言葉も、ただ単に知識のことを言っているわけではありません。パウロが信仰によって義と認められる例として引き合いに出しているアブラハムの信仰のことを考えてみてください。アブラハムが信じて義と認められたのは、ただ、自分の子孫が神の約束どおりに星の数ほど多くなることを知識として受け入れたからではありません。そう約束してくださる神を信頼し、従おうと決心したことをさして、「アブラハムは神を信じた」と聖書は言っているのです。
その意味で、ヤコブが言っていることも、パウロが言っていることも矛盾しているわけではありません。
ところで、パウロは救いにとって善き行いは、けっして第一歩ではないといっています。しかし、それは救われた者の善き行いを否定しているのではありません。例えばローマの信徒への手紙では非常に詳しく信仰による救いを説いていますが、12章以下のところでは信仰によって救われた者がどう生きるべきか、具体的な行いについても記しています。
同じくパウロの書いたガラテヤの信徒への手紙5章6節には「愛の実践を伴う信仰」という言葉が出てきます。ヤコブと同じように愛の実践と信仰とは矛盾するどころか、手に手をとりあった関係であることを言っているのです。
従って、パウロもヤコブも決して矛盾したことを言っているわけではありません。