BOX190 2004年2月18日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「神が全知全能者なら何故?」  兵庫県  F・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのF・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「全知全能の神は人が罪を犯すことを知っていらっしゃったはずなのに、なぜ人を創造し人に苦しむ道、救いの道を選ばせたりしたのですか。最初から本当に神様に忠実な生物を創造しなかったのは、なぜですか。よろしくお願いします」

 ということなんですが、F・Hさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。聖書を読んでいて浮かんでくる素朴な疑問というのはたくさんあると思います。そして、きょうF・Hさんがご質問してくださったことは、その中でも、正に一番多く尋ねられる質問の一つではないかと思います。
 さて、この質問に答えていくためには、いくつか前提となることをお話しておかなければならないと思います。
 まず、わたしたちが神様について、果たしてどこまで知りえるのかという問題があります。神ご自身が聖書を通してこう語っています。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8-9)

 そもそも、知識と知恵に限りがある人間が、神のことについてすべてを知りうるということはありえないことです。その意味では、いただいたご質問に答えることができるのは神様ご自身をおいて他には誰もいません。
 もちろん、神について人間は何も知り得ないのかというと、そうではありません。聖書はこんな風にも語っています。

 「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:19-20)

 神がご自身についてあらわしてくださっている限り、つまりキリスト教用語で言えば、神がご自身について啓示してくださっている限りにおいて、人間は神について知ることができるのです。
 この啓示の方法は、先ほど引用した聖書の個所が語っているように、自然を通してご自分を示してくださる、自然啓示の方法と、神自らが言葉や出来事を通して示してくださる特別啓示の方法があります。特に聖書は救いに関する神の啓示の集大成ですから、神について知りうる事柄の出発点はここにあるわけです。
 つまり、ご質問の答えが、聖書の中にその通り書かれていれば、非常に明快にお答えすることができるわけです。しかしながら、残念なことに聖書の中にご質問の答えそのものを見出すことは出来ません。
 そもそも、この質問が出てくる大本の理由は、聖書を通して知りうる事柄を並べてみた時に、人間にとってはどうしても矛盾としか思えない事柄があるからにほかなりません。

 それはどういうことなのか、ここで一曲聞いていただいてから、後半へきたいと思います。

==放送では、ここで1曲==

 さて、わたしたちが聖書を通して知っている事柄は、次のようなことです。
 先ず第1に、神は全知全能者であるということです。つまり、神は起る事柄をすべて前もって知っていらっしゃるということです。
 そればかりか、起りうるすべての事柄は、神の計画と支配のうちにあるということです。
 この点に関しては信仰をもって受けとめる事ができる事柄であると思います。むしろ、もし、神が全知全能ではなく、しかも無計画なお方であったり、計画しても実行できないようなお方であるとするなら、それこそ信じるに価しないお方です。神が全知全能であり、すべてを計画し支配していらっしゃるからこそ、信じてすべてを委ねることができるのです。
 ところが、人間の罪の問題はどうなのか、ということになると、たちどころに今まで述べてきたような確信が揺らぎ始めます。
 もし、神がすべてを計画しておられるなら、人間が罪を犯すことも計画のうちということになってしまいます。もし、神がすべてのことを支配していらっしゃるなら、人間の罪も神の支配のもとで起ったということになってしまいます。言い換えるならば、人間の罪と堕落は神のせいだという結論に陥ってしまいそうです。
 もっとも聖書はそのことについて「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらない」(ヤコブ1:13)と述べていますから、いかなる意味でも、罪の責任は神にあるわけではありません。しかし、どうして、そんなことが成り立つのか、これだけでは説明になりません。
 ところで、聖書は人間が自由意志を持つ存在であることも同時に語っています。自由意志があるからこそ、責任ある存在として尊厳をもって存在することができるのです。逆に自由意志がなければ、人間には一切の責任がなくなる反面、それでは機械やロボットと同じ存在になってしまいます。言われたとおりの事を定められたプログラムに従ってしているに過ぎない状態です。自発的に自分の意思で何かをするということがない存在です。また自由意志があるからこそ、罪を避けることも、また、罪を犯すことも可能なわけです。
 さて、この人間の自由意志と神がすべてをご計画されているという事実とが、どう調和することができるのか、これは人間の知恵では答えることのできない大きな問題です。
 つまり、ご質問いただいたことに正確に答えようとすれば、これらの問題を矛盾無く説明できるのでなければ、答えにはならないということです。そして、残念ながら、人間にはあまりにも深遠すぎて、なっとくいく答えが見出せないというのが正直なところです。
 ただ、わたしとしては、神の深遠なご計画の中にありながら、ロボットのようではない自由意志をもった存在として造られたことを感謝しています。
 わたしにとっては、それ以上のことを神から説明されたとしても理解できないのではないかと思います。

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