タイトル: 「主に従い霊に燃えるとは?」 H・Nさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はH・Nさんからのご質問です。携帯からのメールでご質問いただきました。お便りをご紹介します。
「主に従い霊に燃えなさい。とのみことばがありますが、何時も従えない自分がいるのです。助けて下さい。」
ということなんですが、H・Nさん、ご質問ありがとうございました。携帯電話からのメールですので、短い言葉ですが、この短い言葉では言い表せないような思いを行間から感じることが出来ました。
主に従うこと、これはクリスチャンとして当然あるべき姿であると同時に、しかし、H・Nさんの悩みのとおり、クリスチャンがいつでも完璧に主に従っているかというと必ずしもそうではないと思います。他の人はどうだかわかりませんが、少なくとも自分の良心に手を当てて正直に答えると、いつも従っているとはいえない自分がいます。もちろん、それでいいとは思ってはいません。どうして、従うことができないのか、そのことを自己点検してみる必要があると思います。
霊に燃えなさい、という言葉も、取り方によっては燃えていない自分がいるときもありますし、しかし、クールであっても、一時的な熱心さよりも、はるかに継続した熱心さを持っている時もあります。いったい「霊に燃える」という表現で、聖書はわたしたちに何を求めているのか、そのことも考える必要があるだろうと思います。
そこで、先ず「霊に燃えなさい」ということについて見てみたいと思います。
H・Nさんがおっしゃる「主に従い霊に燃えなさい」というそのものの言葉は聖書の中にはないと思います。おそらく、H・Nさんが思い浮かべていらっしゃる聖書の個所はローマの信徒への手紙12章11節ではないかと思います。そこには「霊に燃えて、主に仕えなさい」と記されています。
11節全体は「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」といわれていますから、ここでいう「霊に燃えて」というのは「怠らずに励む」ということをもう少し積極的に表現した言葉と理解してよいのだと思います。 ここで「霊に燃える」といわれているのと同じ表現が使徒言行録の18章25節では「熱心」という訳語が当てられています。アポロは「イエスのことについて熱心に語」ったとあります。
「霊に燃えて」という字句にとらわれて、「霊的に燃える」という意味をあえて強調する必要はないのでしょう。ある事柄に一生懸命打ち込むということがここでのねらいだと思います。ローマの信徒への手紙の12章11節全体を一つの勧めと考えれば、ここでの趣旨は、怠けずに、一生懸命主に仕えなさいということです。「霊に燃えて」という言葉が一人歩きして、何か特別な意味での「霊的な熱心さ」が求められていると考えない方が良いでしょう。
さて、もう一つの問題「主に従う」ということについて、一曲聞いていただいてから、後半で考えたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
「主に従う」ということに関しては、特定の聖書の個所を挙げるまでもなく、様々なところで、主への服従が命じられています。
H・Nさんのメールでは「何時も従えない自分がいる」とありました。「いつも従いえない」というのは随分厳しい基準でご自分を見ていらっしゃるのだと思いました。ほんとうに文字通りいつも従っていないというのだとしたら、これは確かに一大事です。大抵のクリスチャンは「何時も従っているとはいえない。けれども、従っていると思っている時も100%したがっているわけではない」ということなのではないかと思います。
H・Nさんが「何時も従えない自分がいる」とおっしゃる意味は、そういう意味なのだと受け取らせていただきました。そもそも、ほんとうに何時も主に従いえないのだとしたら、従いえない自分を悩んだりしないはずです。少なくとも「主に従え」というこの聖書の言葉を、守るべきこととして受け止めている時点で、主に従っているとも言えるのではないかと思います。
さて、主に従い得ないその理由は何なのか、ということを考えてみましょう。
1つには、主のみ心がどこにあるのか分からなくて、従い得ないという場合もあると思います。あるいは逆に、主のみ心がわかったと思っていても、結果として、それは主のみ心ではなくて、主に従い得なかったという場合もあるでしょう。ある意味では、それは人間にとって仕方のないことでもあると思います。結果から初めてそれが主のみ心ではなかったということを知ることは、人間にとって避けることは出来ないからです。
問題なのは、聖書を通して人間の生きるべき道がはっきりと示されているような場合です。たとえば、殺すな、盗むな、偽証するな、などの場合は、主のみ心が非常にはっきりと示されています。もちろん、文字通りの意味でならば、殺したり、盗んだりすることは避けられるでしょう。しかし、十戒の本来の主旨である、そのことを通して神を愛し、人を愛しているかということになると、自己判断することすら難しくなってしまいます。例えば、脳死というものを認めて、臓器移植に道を開くことが、隣人愛なのかそれとも殺人に手を貸すことなのか、人間には判断できないことです。
もちろん、もっと単純にあることが愛に反する行いであるとわかっていても、自分のことを優先させてしまうという場合もありえます。それは人間の罪と弱さからでてきていることです。
あるいは、故意に自分の思いを優先させることもあると思います。それは罪から出ている以外の何ものでもありません。
1口に主に従っていないといっても、その中身と理由は様々です。そこで、わたしたちに求められていることは何かというと、2つのことだと思います。
1つは、色々な意味で主に従うことができないという現実があるにもかかわらず、主に従うことが求められているという事実を曲げないことです。どうせ人間には無理なことだから、意味が無いなどと思わないことです。
もう一つには、主に従うことができない自分を率直に認めて、主におまかせすることです。ある意味では、主に委ねることこそが、もっとも主に従う生き方だと思うのです。
最後にパウロの言葉を引用して終わりたいと思います。フィリピの信徒への手紙3章12節です
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
自分を完全なものとは思わず、キリストに捕らえられながら、何とかして捕らえようとする努力こそ、主に従う一歩なのではないでしょうか。