タイトル: 「信仰とは?」 A・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はA・Kさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「いつも楽しく聞かせていただいております。今回は聖書にありますみ言葉についての質問です。
ヘブライ人への手紙 11章1節に「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とありますが、この内容の意味と、どうすればこの様な信仰を持つことが出来るのか信仰のトレーニング方法をお教え願います。」
ということなんですがA・Kさんはじめまして。いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。信仰についてのストレートなご質問、嬉しく思いました。今回はヘブライ人への手紙からのご質問ということで、さっそく考えてみたいと思います。
お便りの中にでてきたヘブライ人への手紙11章1節、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」という言葉はとても有名な言葉ですね。信仰とは何か、信仰が持っている一つの側面をとてもよく言い表している言葉だと思います。この言葉を自分の好きな聖書の個所の一つとしてあげる人は多いように思います。
さて、聖書の中には「信仰」という言葉や「信じる」という言葉がたくさん出てきます。一般的に言えば、「信仰」といえば、宗教に関する事柄に関係しています。それに対して「信じる」というのは、必ずしも宗教に関係しているわけではありません。「人の言っていることを信じる」というような使い方もするからです。この場合は「信用する」という風に言い換えることができるかもしれません。あるいは「信頼する」と言い換えることもできるかと思います。
信じる対象は神や人などの人格を持ったものばかりとは限りません。たとえば「コンピュータの予測結果を信じる」という言い方もします。その場合はコンピュータのはじき出した予測の結果を正しいと思うという意味です。
しかし、聖書の中で「信じる」という言葉が出てくるときには、宗教的な意味で用いられることが多くあります。特に「神を信じる」というような言い方が出てきます。
一般的に「神を信じる」というときには、「神の存在を信じる」という意味に使うことが多いと思います。しかし聖書の中で「神を信じる」というときには、神の存在は既に前提として受け入れられていて、その上で神の全人格を尊び信頼して寄り頼むというような意味で使われます。「神が存在する」と言う知識と「その神を畏れ敬い信頼して服従する」人格的な態度としての信仰と区別されなければなりません。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、ヘブライ人の手紙にでてきた信仰をめぐる言葉も、そのようなことを念頭において理解する必要があると思います。
さてここで一曲聞いていただいてから、後半へ行きたいと思います
==放送では、ここで1曲==
さてヘブライ人への手紙11章1節の言葉の意味を考えようとしています。もう一度その個所をお読みします。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」
この文章を単純に分解すれば「信仰とは確信であり、確認である」ということになります。何を確信するのかといえば、「望んでいる事柄」です。では、何を望んでいるのかといえば、具体的にはこの手紙の11章の中に記された神の様々な約束です。つまりは、神の約束されたことを確かなものと信じて待ち望む姿勢です。
また、「信仰とは確認である」とありますが、目に見えることを確認するのは信仰とは言いません。目に見えないことをあたかも見たかのように確認するのが信仰です。
やはり、具体的な例がヘブライ人への手紙の11章の中に記されます。先ず最初に挙げられるは「この世界が神の言葉によって創造された」ということです。それこそ天地創造の様子など誰も見たことがありませんから、信仰によってそれを受け取る他ありません。ノアもまだ雲の一片、雨の一滴も見ないうちから、神が告げた大洪水を本当のことと受け止めたのでした。
他にもたくさんの具体的な例がそこには記されていますが、そこからも明らかなように、信仰とはただ単に「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」ではありません。望んでいる事柄も見えない事柄も、それらが神によって約束され、神によって告げられたからこそ、そのようなものとして確信し、確認することなのです。そこには神への人格的な信頼と服従の姿勢が求められているのです。
同じ手紙の11章11節にアブラハムの妻サラの信仰のことが記されていますが、サラが望んでいる事柄を確信したのは、他でもなく「約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです」。この人格的な信頼関係が大切なのです。
さて、ここまでくれば、AKさんからの最後の質問も答えが見えてきたのではないかと思います。「どうすればこの様な信仰を持つことが出来るのか」…それは神との人格的な交わりが一番大切なことです。神を真実なお方と信じ、信頼することです。それは、ただ単に聖書の知識を増やすということによっては決して得られるものではありません。
聖書の知識を増やすというだけならば、それこそ、ヤコブの手紙2章19節で言われているような信仰に留まってしまいます。そこにはこう記されています
あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています
悪霊どもにも神は唯一であるという知識はあります。しかし、神との人格的な交わりがないために、神を真実なお方、信頼するに足るべきお方としては受け入れてはいないのです。そのような信頼関係のないところに、望んでいる事柄を確信したり、目に見えないものを確認したりすることは出来ません。信仰とは何よりも神との人格的な交わりだからです。