BOX190 2004年1月14日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「結婚の誓いの意義は?」  ハンドルネームAmazonさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームAmazonさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生 お久しぶりです。私は30代後半独身女性です。それなりの経緯もあって結婚していないため既婚の友人からも結婚生活について気軽に相談されがちなのですが、この頃、結婚10年を過ぎた人達が、「旦那が嫌になった。出会い系サイトで出会った人を本気で好きになってしまった。家庭は壊したくないけれど、いけないと知ってても恋する事は止められない。」とか「仕事先でであった男性が好きになった。好きだといえないまま、転勤したので切なくて堪らない。」など本気で相談してくるのです。一人の人として彼女達の言っている事はわかるし、心の痛みも感じるのですが、そうなると、しみじみ『結婚式での誓い』はなんだったの? あれは罪深い人間には、不可能な約束なんじゃないのかしら? と真剣に考えはじめました。私達が10代後半だった頃『金曜日の妻たちへ』というドラマが流行りましたが、『金妻世代』の私達だからこんな調子なのでしょうか? 山下先生の世代では「♪あなたが嫌いになったわけではありません あなたより好きな人が出来ただけです」と言う、さだまさしの歌の世界になるのかもしれませんが、こんな時代だからこそ、『結婚式での誓い』の意味を改めて語っていただけないでしょうか? お願いします。」

 ということなんですが、Amazonさん、お久しぶりにメールありがとうございます。メールを読んで色々なことを考えさせられました。何をどこからお話したらよいのやら、本当に困惑しています。
 お便りの中に「一人の人として彼女達の言っている事はわかるし、心の痛みも感じる」とありましたが、その部分をとても複雑な思いで読みました。
 「不倫は良くないことです」と一言言えば、すべてが解決できるほど単純な問題ではないことは百も承知しています。その行動に走るまでの過程に、いろいろ同情すべきところもあることがあります。しかし、どんなに同情できる部分があったとしても、やはりその行いは身勝手だと非難されても当然なことです。
 不倫はただ単に道徳的倫理的な問題であるばかりではなく、法律的にいっても、不法行為と考えられています。刑法上の罪ではありませんが、民法上は損害賠償や慰謝料請求の法的な根拠になります。たとえ夫が気に入らなくなったことに相当の理由があったとしても、不倫を正当化する理由にはなりません。
 そもそも、不倫ということが問題となるのは、人間が人間であるからだと言うことができるかもしれません。動物は不倫するのかしないのか、動物の種類によって様々なようです。不倫する動物もいれば、しない動物もいます。しない動物はそのような法律を自分で定めたわけではありません。特別に倫理観が高いからでもありません。しないからしないに過ぎないのです。人間もそれと同じように、しないからしないのであれば、不倫などという問題は絶対に起らなかったでしょう。
 また不倫する動物は、掟に反して不倫しているのではなく、そうすることが彼らの自然の法則なのです。人間もそれと同じであるなら、やはり何も問題はありません。
 しかし、どんな動物とも違って、自ら心のうちに不倫をしないことを誓って、その誓いに従って生きようとするのは人間だけなのです。従って、不倫とは正に人間固有の問題なのです。

 さてここで一曲聞いていただいてから、後半へ行きたいと思います

==放送では、ここで1曲==

 不倫と結婚の誓いについて取り上げています。
 その前に、もう一つだけお話しておきたいことがあります。お便りの中に、テレビドラマと不倫とのことが言及されていましたが、確かにテレビや週刊誌の影響で不倫に対する意識も変わってきたかもしれません。また、インターネットの普及によって、不倫する機会が簡単に手に入れられるようになったのかもしれません。
 ただ、昔も今も、人間自体はそんなに変わっていないということです。聖書の中にも不倫の話は出てきます。聖書の中の登場人物といえども、不倫とは全然関係のない世界の人の話ではないのです。
 古今東西、文学作品に不倫がテーマとならない国民はないといってよいほど、不倫は人類に普遍的な現象です。
 そこで、ご質問の件と関係してくるのですが、結婚式の誓約、「あれは罪深い人間には、不可能な約束なんじゃないのかしら?」とのことですが、ある意味ではまったくその通りかもしれません。だからこそ、教会の結婚式では、結婚の誓約の後、牧師は二人がこの誓いを全うすることができるようにと、神の力と助けを祈り求めます。
 どうせ守れない誓いなら、誓わせるだけ無駄だというのは共感できません。もし、ある種の動物のように不倫することが当たり前であるような生き方を選び取るならば、それはそれで誓いなど必要でなくなってしまいます。
 しかし、人間は不倫しないという生き方が正しいと信じ、道徳的にも倫理的にもそれが正しい生き方であると確信し、さらには、法律的にも婚姻関係に効力をもたせようとしているのですから、結婚の誓約をすることは決して意味のないことではありません。誓いを通して、自分のあり方を確認しているのです。
 もちろん、世の中に不倫というものが一切存在しなければ、貞節を誓う必要などないことは言うまでもありません。イエス・キリストがおっしゃるように、然りを然りとし、否を否とする生き方をすればよいだけです(マタイ5:37)。
 もっとも、誓約をすることがどれほど不倫を抑止する効果があるのかといえば、その効果は疑問視されるかもしれません。確かに日本では宣誓するという習慣があまりありませんから、ただの儀式の一つとしか思われていないかも知れません。そういうところでは、誓約したからといって、その効果を期待できないかもしれません。
 しかし、だからといって、誓約することそのものをやめてしまうのは本末転倒です。むしろ、誓いが果たされるようにあらゆる環境を整えていくことこそが求められているのではないでしょうか。「環境」という言葉をあえて使いました。誓いを果たすのはもちろん本人ですが、誓いを果たすことを疎外するようなあらゆる有害な環境を取り除いていくこともわたしたちの勤めではないかと思います。

Copyright (C) 2004 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.