タイトル: 「最初のクリスチャンは誰?」 福岡県 F・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は福岡県にお住まいのF・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、時間が取れるとき、水曜日のBOX190を聞けて感謝です。リスナーに考えるところを残しておられることが、なるほどと思います。
『あなたはどう思われますか』と…
さて、わたしの疑問に答えてくださると嬉しいのですが、最初のクリスチャンって誰でしょうか。また、キリスト教はどこから始まったのでしょうか。本当に素朴な疑問ですが、聖書を読み進める上でふっと湧き上がったものです。よろしくお願いします」
ということですが、F・Hさん、番組を楽しみにしていて下さってありがとうございます。
素朴な疑問とありましたが、素朴な疑問こそほんとうは大きな発見に繋がったり、わたしたちの目を開かせたりしてくれるものです。素朴な疑問、大歓迎です。
さて、2つの質問がありましたので、さっそく最初の質問から考えていきたいと思います。第1の質問は「最初のクリスチャンって誰でしょうか」ということでしたね。
そもそもクリスチャンという名前が最初に登場するのは使徒言行録11章26節です。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」と記されています。ここで「キリスト者」と翻訳されているギリシア語は「クリスティアノス」という言葉です。その意味は「キリストに属する者」ということです。新約聖書の中では、この「クリスティアノス」という言葉はここを含めて3回しか出てきません。パウロの手紙の中にはクリスチャンという言葉は一度も出てきません。パウロはクリスチャンのことを「聖なる者」「聖徒」などと呼んでいます。クリスチャンという呼び方よりも、こちらの方が普通です。
そもそも、なぜ新約聖書の中に「クリスチャン」という呼び方が少ないのかというと、それは、おそらく、「クリスチャン」という呼び名が、外部の人からつけられた、いささか軽蔑を込めた呼び名だったからと思われます。
ご存知だと思いますが、「プロテスタント」という名称は、もともとはプロテスタント以外の人たちから「抗議する人たち」という反感を込めた名称として与えられたものでした。それと同じように「クリスチャン」という呼び名も最初は教会外部の人からつけられた名前なので、教会の中ではあまり使われることがなかったのかもしれません。
さて、「クリスチャン」という名称がいつ頃どこで使われたのかといことならば、だいたい紀元40年代の半ばぐらいよりちょっと前辺りに、アンティオキアでということになります。
しかし、クリスチャンと呼ばれるよりももっと前に、キリストを信じる人はいたわけですから、クリスチャンという名前の歴史よりもそっちの方がもっと聞きたいポイントだと思います。その点についてお話する前に、一曲聞いていただきたいと思います
==放送では、ここで1曲==
最初のクリスチャンは誰かということですが、そもそもクリスチャンとはどういう人のことを言うのでしょうか。「父と子と聖霊の名によって水の洗礼を受けた人」という意味であれば、いわゆる12弟子はクリスチャンに含まれなくなってしまいます。彼らの中にはバプテスマのヨハネの洗礼を受けた人もいました。しかし、ヨハネ福音書4章2節によればイエス自身は洗礼を誰かに授けたことはありませんから、弟子たち相互に洗礼を授けあったのでなければ彼らはキリスト教の洗礼を受けたことにはなりません。残念ながら、そういう事実の記録も残っていません。
あるいは、使徒言行録の2章に記された聖霊降臨のときをもって、弟子たちがクリスチャンになったのだとすれば、それはだいたい紀元30年ごろの5月ごろということになります。しかし、それでは、その前に復活のイエスと出会って、約束のものを期待しながら祈っていた弟子の群れは、一体何だったのかということになってしまいます。
あるいはまた、イエスをキリストとして信じる信仰の告白をした時点をもってクリスチャンと呼ぶとするなら、それは紛れもなくペトロがフィリポ・カイサリアで信仰を言い表した時です。年代で言えば、紀元30年よりも少し前のことになります。
しかし、ペトロはそのすぐ後で、イエス・キリストから「サタンよ、引き下がれ」とお叱りを受けてしまう程度の信仰でしたから、まだイエス・キリストのことがわかっていなかったといえるかもしれません。
残念ながら、最初のクリスチャンに関しては、それ以上の詳しいことは言うことが出来ません。それは、神だけがご存知のことです。
さて、もう一つの質問ですが、「キリスト教はどこから始まったのか」と言うことですが、使徒言行録1章8節に記された図式的な表現で言えば、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリアの全土、さらには地の果てにまで広がっていったということです。
この場合のキリスト教というのは、ペンテコステの出来事がある意味での区切りになっていると考えられます。
しかし、別な観点からもキリスト教の始まりを考えることができると思います。キリスト教も、もともとは旧約聖書の教えを信じるユダヤ教の中にありました。もちろん、そのころは「旧約聖書」という呼び方はありませんでした。新約聖書もない時代でした。
使徒言行録によれば、最初の頃の弟子たちは、時間になればエルサレムの神殿に祈りに登っていきました。形だけを見れば、ユダヤ教とキリスト教の区別はつきにくかったかもしれません。パウロもイエス・キリストのことを伝えるために、まずは安息日に各地にあるユダヤ教の会堂を訪れましたから、これも、キリスト教とユダヤ教は見た目にははっきりしなかったかもしれません。
しかし、やがてユダヤ人以外の人々にも福音が伝わるようになってくると、割礼の問題など、ユダヤ人と異邦人が対立するようになってきました。そのとき、ユダヤ教とキリスト教の違いが自覚的に意識されるようになってきたと言えるかもしれません。もちろん、それ以前にキリスト教がなかったのかというとそうではありません。イエスをメシアと信じる人々が起された時点で、キリスト教は誕生したということができると思います。