ごきげんいかがでしょうか。江古田教会の風間義信です。
分厚い聖書は「初めに、神は」という言葉で始まっています。この言葉は確かに古いものですが、混沌としている現代だからこそ、大きな意味を持っています。
いったい初めに神が何をなさったのかといえば、天地を創造されたのです。それは私たちにとって必要なものをすべて備えてくださったということであり、しかもそれは非常に素晴らしいものでした。
ところがどうでしょうか。私たちの目から見るならば、もし神が天地を造り、全てのものを造られたのであるならば、このような問題が何故起こるのかと文句を言ってしまいがちです。けれども、その私たちにとって問題と思ってしまうようなものさえも神が造り、素晴らしいというのであれば、それがどういうことであるかを捜したくなるのではないでしょうか。ですから、求めなさいと聖書は勧めています。
そもそも、天地が造られ、最後に人間が造られたということは、先にあるものに対して謙遜になりなさいと言うことではないでしょうか。
今私たちに見えるものは一部分かもしれませんが、初めに天地を造られた神の下にあって起こることは偶然ではなく、また無駄になることもありません。ここにこそ、私たちの確かな土台があります。だからこそ安心して、そして確かな希望を持て歩むことが出来るのです。