いかがお過ごしでいらっしゃいますか。ラジオ牧師の山下正雄です。
人間とは好奇心の強い生き物です。好奇心があるお陰で色々な進歩も生まれました。しかし、好奇心が昂じて、本質を見失うこともあります。
あるときイエスの弟子たちは一人の目の不自由な人を見て、イエスに尋ねました。
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
それに対してイエスはこう答えました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
わたしたちの興味や関心は、ときどき的はずれなことがあります。目の前にいる一人のために何が必要かということを考える前に、自分の知的な関心が優先されることがあるからです。確かにものごとの原因を突き止めれば、自分が同じ目に遭わないように気をつけることができるかもしれません。けれども、それは自分本位の視点からでてくる関心なのです。
しかし、イエス・キリストの関心の視点は違っていました。自分の目の前にいる一人の人を、見習ってはいけない罪人としてではなく、その上に神の業が現れる一人の人としてご覧になったのです。
どんな人であれ、その上に神の業が現れる人として見るならば、もっと大事な関心をその人に寄せることができるでしょう
きょうのみ言葉・・・「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」ヨハネによる福音書9章3節