お元気にお過ごしですか? 東洋宣教教会牧師の小堀昇です。今日もご一緒に神様を見上げて歩んでまいりましょう。
私の娘が一年生のとき、学校の帰りに迷子になってしまったことがありました。あまりにも帰りが遅いので私は学校に連絡を取り、血相を変えて、あっちの道、こっちの道、あの公園とあちらこちらを探し回りました。私はそのとき生きた心地がしませんでした。そして数時間後、とうとう、道端に佇んで泣いていた娘を発見して、私は走りよって思わず抱きしめてしまいました。何故迷子になったのかその理由を尋ねると、「学校の帰りに全然方向の違うお友達の家に一緒に遊びに行ってしまい、行ったのはいいけれども、帰りの道が分からず、一人で帰れなくなってしまった」とのことでした。
ともかく見つかってよかったとほっとして、手を繋いで家に帰る途中私は、ふと神様のことを思い出しました。
私たちの信じている神様は、立ち尽くす神様ではありません。走りよる神であります。私達の人生に指一本触れない神様ではなくて、私達の人生に、御介入下さって、私達を受けとめ、抱きしめ、私達の人生を導いて下さる神様です。人生こんなはずではなかったと、道に迷って、途方に暮れて佇んでいる私達に走りより、解決を与えて下さる神様です。
聖書に出てくる放蕩息子は、父の財産を全部遊興の果てん使い尽くして行く所もなく、ボロボロになって父のもとに戻ってきました。しかし、父は、「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。と聖書は言っています。 そして、一番良い服を着せ、手には指輪を嵌めさせて、履物を履かせてやったと聖書は言っているのです。
神様は、あなたに走りよってきて下さり、あなたがどんなに道に迷ったとしても、あなたの人生を回復させて下さるお方です。このお方と今日もご一緒に居も歩んでまいりましょう。