隣人愛を教える後半六つの戒めの最初は「父母を敬いなさい」という戒めです。この何気ない戒めが隣人愛の最初に置かれていることの意味を、今回は深く学んでみましょう。
十戒は、前半四つが“神に対する”私たちの姿勢、後半六つが“隣人に対する”私たちの義務を教えていると学びました(問93)。今回学ぶ第五戒「あなたの父母を敬え」は後半最初の戒めですが、実は前半と後半をつなぐ大切な働きをしています。
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なぜなら、ここに登場する隣人は、神が「彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさる」人々、すなわち「わたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々」であり、彼らに対して「あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従」することを教えているからです。つまり、神に対するように接すべき“縦の人間関係”が教えられているのです。
「父母を敬え」との教えは、古今東西、別段変わったこともない教えと思えるかもしれません。しかし、旧約聖書の中で繰り返し教えられるこの戒めは、父母に対する呪いの言葉が死罪(出21:17)にあたるほど厳格な戒めであり、また、父母の別なく両親には全く平等に従うように命じる特別な戒めなのです(箴言1:8、23:22)。
なぜ両親への敬意と従順がそれほどまで厳しく求められているのか。それは、両親が神によって与えられた人々だからです。子どもは自分で親を選べません。すでに生まれる前から、神の不思議な導きと配剤によって備えられています。それ故、両親への敬意と従順とは、そのような神の摂理に対する敬意と従順に他ならないのです。
両親だけではありません。この世に生を受けた私が今日まで養われ成長するために、数えきれないほど多くの人々の助けがあったはずです。“狼少年”の例を引くまでもなく、人間はそのままで人間になるわけではありません。人生の折々に与えられた人々の愛情や配慮、「教えや懲らしめ」によって、人は人として成長して行くのです。それもまた、人の思いを超えた天の御父の配剤です。つまり、第五戒の根本にあるのは、私という存在がこの世に生れ出て今日あることを肯定してくださる神の御心への感謝と、人間社会そのものを成り立たせる天の御父の摂理への信頼なのです(問27)。
このように自分の存在を肯定でき、そのために与えられている人々や環境に感謝の心を持つことができるのは幸せなことだと思います。もちろん、完全な親などおりません。上に立てられている人々が常に模範的であるとも限りません。にもかかわらず「彼らの欠けをさえ忍耐」して受け止め、「神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさる」と信仰の目をもって見ることのできる人は幸いです。そのような人は、この世界と人生とを肯定的に受け止めることができるからです。「あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」(エフェソ6:3、出エジプト20:12)という約束の言葉が第五戒に添えられているのは、そのためです。
子どもは自分で親を選べません…。両親への敬意と従順とは、
そのような神の摂理に対する敬意と従順に他ならないのです。
この第五戒は「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」というパウロの言葉(ロマ13:1)と結びつけられて、国家権威への服従や抵抗権の問題として論じられたり、“家父長制”や“奴隷制”の是非の問題と絡めて論じられることもありました(コロサイ3:18,22等)。そのように問題を拡げて論ずることは有益ですが、戒めの本旨を見失わないように注意しましょう。
この戒めは、特定の社会制度や秩序を無条件に肯定するのでも一切の抵抗権を否定するものでもありません。むしろ、どのような境遇に置かれた者にも神の隠された御計画と恵みがあること、すべての人の存在の背後に神の御意志を見ること、そして、各々が召された立場で主イエスの模範にならって生きることを教える戒めなのです。
「キリストは、神の身分でありながら…、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6,8)。神の御子であられた方が、人間の両親にお仕えになり(ルカ2:51)、この世の為政者にさえ従って天父の御心を全うなさいました(ルカ22:42)。どうして私たちが従わずにおれましょう。
第五戒は、隣人愛の根拠をも与えます。隣人の背後に神の御手を見て、仕えることを教えるからです。主イエスにならって謙遜に歩む者たちを、神もまた高く上げてくださることでしょう(1ペトロ5:6)。
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