今回は「誓約」の問題が取り上げられます。誓いとはそもそも何なのでしょう。私たちは神の名によって誓ってもよいのでしょうか。また、それはどのような意味を持っているのでしょう。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という第三の戒めは、神の名を用いないことではなく正しく用いるための戒めだと学びました。今回は、そのように神の名を用いる場面の中でもとりわけ重要な“誓約”についての問答です。
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それというのも宗教改革の時代、聖書を重んじるプロテスタントの中に、主イエス御自身が「一切誓いを立ててはならない」(マタイ5:34)とお命じになった以上いかなる場面においても誓約すべきでない、と主張する人々がいたからです。
しかし、イエスは本当にすべての誓約を禁じられたのでしょうか。それともその誤用・濫用を戒められたのでしょうか。第三戒で神の名を「みだりに」用いることが問題であるならば、「敬虔に誓うこと」は許されるのでしょうか。
『信仰問答』の答えは肯定的です。特に「権威者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。なぜなら、そのような誓いは、神の言葉に基づいており旧約と新約の聖徒たちによって正しく用いられてきたからです」。
神の名による誓いが重んじられたことは「神の言葉」である聖書全体の教え(申命記6:13、10:20、エレミヤ4:1-2)と「旧約と新約の聖徒たち」の模範(アブラハム/創世記21:24、ヨシュア/ヨシュア9:15、ダビデ/列王上1:29、パウロ/2コリント1:23)からも明らかです。主イエスの禁止命令は、当時の人々の形式主義に堕していた誓約に対してであって、神の名を敬虔に用いる誓約そのものに対してではありません。
神の名による誓約は、公的な場(例えば裁判など)において、あるいはまた「神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合」に求められます。確かに、皆が誠実で皆が真実を語る世界に誓約などは不要でしょう。けれども、白を黒と言いくるめる現実の世界には人の良心に訴えて真実を保証させる誓約が求められます。にもかかわらず、不義に満ちた世界では、いとも簡単に人は偽りを語り誓いは破られるのです。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮(まむし)の毒がある」(ローマ3:13)。
キリスト者の誓約は、失敗をしないという約束ではなく、私に対して常に
真実でいてくださる神の御前に私もまた誠実に歩みますとの告白だからです。
他方、信仰者にとって、誓うことは口先だけの行為ではありません。それは「ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと呼びかけること」だからです。自分の言葉の真実を、裁判官や聴衆に対してだけでなく、何よりも目に見えない神の御前で神に対して証言する信仰告白の行為なのです。
したがって、そのような誓いを「聖人や他の被造物によって」為すことはふさわしくありません。“国家の名”にせよ“○○家の名”にせよ、天使であろうと聖人であろうと、真実の究極的な審判者にはなりえないからです。私たちはむしろ神の御名によって敬虔に誓うことを通して、神のみが良心の唯一真の審判者であることを証し、この方にのみ栄光を帰するのです。
教会においては、洗礼や信仰告白、教会への転加入、役職への就任、あるいは結婚式等の際に誓約が為されます。これらは神の御前で為される行為ですから、何か形式的な行為と軽々しく考えるべきではありません。けれども、他方で、一度誓ったことに対して断じて失敗は許されないかのように受け止める必要もありません。キリスト者の誓約は、失敗をしないという約束ではなく、私に対して常に真実でいてくださる神の御前に私もまた誠実に歩みますとの告白だからです。
「たとえ死ぬことがあっても、あなたのことを知らないなどとは申しません」と、主イエスに対して大見栄をきったペトロの心に偽りはなかったことでしょう(マルコ14:31)。しかし、舌の根も乾かぬうちに彼は三度もイエスを知らないと“誓い”始めたのです(14:71)。人間は弱い者です。けれども、真実な神は私たちの罪を赦し、あらゆる不義から清めてくださいます(1ヨハネ1:9)。第三戒を生きるとは、このような神の御前で誠実かつ感謝をもって生きて行くことに他なりません。
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