“悔い改め”や“回心”という言葉はよく知られています。簡単に言えば、方向転換のことです。けれども、問題は、どこからどこへ向かって方向転換するかです。その方向をしっかりと学びましょう。
神によって造られた人間は神から離れることによって罪と悲惨な状態に落ちたけれども、神はそのような人間をお見捨てになるどころか、むしろ命をかけて救い上げてくださった。そのような神の救いを学べば学ぶほど、キリストがわたしのために為してくださった御業を知れば知るほど、全生活にわたる感謝へと導かれる。これがキリスト者の生活の特徴であり『信仰問答』第三部の主題である、と学びました。
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そこで疑問が起こります。「それでは、感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち返らない人々は、祝福されることができないのですか」。感謝の生活が信仰者の特徴であるならば、逆に感謝も悔い改めもない生活が続く時、私たちの人生にいささかも変化が生まれない時、それは祝福される人生とならないのか。答えは極めて率直です。
「決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。『みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません』」。二重鍵括弧で括られている引用部分は、コリントの信徒の手紙一 6章9〜10節からの引用を少しだけ短くしたものですが、パウロは同じことを他の箇所でも繰り返しています(ガラテヤ5:19-21、エフェソ5:5)。ここに挙げられた悪徳の数々はおよそ神の御旨にそむくものですから、そのままの状態で「神の国を受け継ぐこと」ができないのは当然でしょう。
しかし、この悪徳リストの一つでも犯す者は救われないということでは、もちろんありません。もしそうなら、誰一人救われる人などいないでしょう。そうではなく、そのような罪人さえも救ってくださる神に何の「感謝も悔い改めもない歩み」を続けること、つまりは「神へと立ち返らない」元のままの人生で、祝福されることはないということです。
「わたしは悪人が死ぬことを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と、主なる神は言われます(エゼキエル33:11)。肉の欲におぼれた身勝手で破滅的人生から、私たちを愛して止まない神様にすべてをゆだねた神中心の人生へと方向転換すること。それが聖書の言う「悔い改め」なのです。
何度つまずき倒れても立ち上がって歩み続ける。
それがキリストに結ばれた者の歩みです。
『信仰問答』は、これまでも何度となく「悔い改め」の必要性を繰り返し教えてきました(問81、82、84、85、等)。これは、キリスト教信仰が儀式的・形式的なものに堕していた当時のヨーロッパ世界の状況を色濃く反映しています。信じることと生きることは決して別のことではない。イエス・キリストの福音は私たち罪人の生き様を変革させる神の力(ローマ1:16)であるというのが『信仰問答』の確信です。実際、キリストは、御自分の血によって私たちを贖われた後に、その聖霊によって私たちを御自身の姿に似た者となるように生まれ変わらせてもくださるからです(問86)。
それでは、私たちが生まれ変わる人生の方向転換である「まことの悔い改めまたは回心」とは、どのようなものなのでしょう。いい加減な悔い改めや中途半端な回心に対して「まことの」悔い改めや回心には二つの側面があると『信仰問答』は教えます。「古い人の死滅と新しい人の復活です」。使徒パウロは、キリスト者の生活についてこの表現を用いてしばしば表現しています(ローマ6:1-11、エフェソ4:22-24、コロサイ3:5-10)。
わたしの中には、自己中心的で肉の欲望にひかれる弱く罪深い「古い人」がいる。しかし、かつてはそれだけだった自分の中に、今や神を信じて生きたい、キリストに従った人生を歩みたいという「新しい人」が生まれた。自分の中の「古い人」が葬り去られて「新しい人」が立ち上がってくる(ラテン語版:新生する)こと、それが主の霊による真の回心のしるしです。
キリストは、罪の生活にどっぷりつかった私たちをそのまま赦してくださいます。しかし、その罪の生活そのものの中に人の真の「祝福」はありません。死臭漂う墓場のような生活に別れを告げ、立ち上がって新しい命の道を歩み始める。何度つまずき倒れても立ち上がって歩み続ける。それがキリストに結ばれた者の歩みなのです。
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