“天国の鍵”という言葉があります。罪深い私たちに対して、どのように天国は開かれるのか。今回と次回と二回にわたって学びます。今回は、特に福音の説教について学んでみましょう。
主イエスはある時ご自分の弟子たちに、世間一般はともかく「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。これに対しシモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えると、イエスもまた「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる…。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とおっしゃいました(マタイ16:15-19)
ここから、使徒ペトロは主イエスから全権を委ねられたとの信仰が生じ、ペトロを描く聖画には“鍵”が描き込まれるようになりました。しかし、聖書をよく読むと、主イエスはその権能を決して一個人に委ねられたわけではなく“あなたがた”という使徒たち全体、すなわち御自分の教会にお委ねになったことがわかります(マタイ18:18、ヨハネ20:23)。
主イエスに代わって教会が行使する天の国の“鍵”とは、罪の赦しを与える権能のことです。それでは、教会はその“鍵”を具体的にどのように用いるのでしょうか。キリストの教会における「鍵の務め」とはいったい何でしょうか。
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それは「聖なる福音の説教とキリスト教的戒規」であると信仰問答は答えています。そして「これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ、不信仰な者たちには閉ざされる」のだと。ここで注意していただきたいことは、“鍵”という比喩を使っているために「開く/閉ざす」と言われていますが、本来この鍵は「開く」ためだけだということです。
堕落以来、天国は罪人にとって二度と戻ることのできない閉ざされた場所であって(創世記3:24参照)、私たち次第で開けたり閉じたりできるものではありません。
この二度と開かれないはずだった天国の門を開いてくださったのが、主イエス・キリストです。そして、ひとたび主イエスによって開かれた門は二度と閉ざされることはありません(黙示録3:8)。ですから、ここで言われている「開く/閉ざす」とは“私たちにとって”ということ、たとえて言えば“私たちの心の扉”がどのように開かれるかということです。
天国の鍵とは究極的には主イエス・キリストの「福音」だけだということです。
主イエスの赦しの言葉によって、天国は誰に対しても…開かれるのです。
それでは「聖なる福音の説教によって、天国はどのように開かれ」るのでしょうか。それは、説教によって伝えられた「福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度に、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、神によって真実に赦される」ことによります。
何より大切なことは、ただの世間話でも神の怒りや裁きの告知でもなく、「福音」すなわち喜びの報せが説かれることです。天国の扉が今や主イエス・キリストによって大きく開かれた、あなたの罪は赦された(ルカ5:20、7:48、他)という喜びの告知がなされること。そして、その報せを聞いた私たちもまた心の扉を大きく開いて主イエスを迎え入れ、キリストとの和らぎにあずかることです(黙示録3:20)。
しかし、このような福音に応答しない時、依然として「神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まる」。その時初めて刑罰が加えられるのではありません。神の赦しを拒絶している限り、それは「留まる」のです。
このようにして神は人を「この世と来たるべき世において」お裁きになると言われます。福音の説教は地上の教会でなされますが、あの世に行ってみたら違っていたということはありません。主イエスが教会に託されたのは“天国の鍵”であって、何か別の鍵ではないからです。「あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われたとおり(マタイ18:18)、地上の教会で福音を信じて赦された人は、天上でも裁かれることはありません。地上の教会と天上の教会は一体だからです。
次回は「戒規」について学びますが、実はこれも福音に伴うものであって別物ではありません。つまり、天国の鍵とは究極的には主イエス・キリストの「福音」だけだということです。主イエスの赦しの言葉によって、天国は誰に対してもどんな罪に対しても開かれるのです。このことのために、ただそれだけのために、主イエスは御自分の命をお捧げくださったのであります。
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