キリストの再臨や最後の審判は、いつの時代でも人々の興味と関心の的です。おどろおどろしいイメージがつきまとうこの教えを正しく理解することは、実は、私たちの日々の生活の大きな力と慰めとなるのです。
現代の社会不安や地球環境の悪化から、“この世の終わり”を描く小説や映画が後を絶ちません。世の終わりがどうなるかは、先を見通すことのできない人間にとって、いつの時代でも大きな関心事です。しかし、世界を創造された神を証しする聖書こそ、世界の終わりを語るに最もふさわしい書物と言えましょう。そして、その聖書が語る終末の中心にある出来事こそが、キリストの“再臨”また“最後の審判”と呼ばれる出来事なのです。
昇天するイエスを見上げていた弟子たちに、御使いは「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と告げました(使徒1:11)。これが「キリストの再臨」です。英語では“リターン”とか“セカンド・カミング”と言います。いずれも、どこかへ出かけた人が再び戻って来るというイメージです。イエス御自身もまた、譬えを用いてそのようにお教えになりました(マタイ24-25章参照)。
けれども、これまで学んできたとおり、実際には主イエスは片時も私たちから離れておられません(問47)。どこかに行っていなくなってしまった、ということではないのです。ただ地上におられた時のように見ることができないというだけです。ですから、「再臨」とは“戻る”というよりは再び目に見える姿で“現れる”ことだと言う方が正確でしょう(テトス2:13-14他)。そしてその時、すべての事もまた顕わにされると聖書は告げています。隠されていたことすべてが明らかにされる。それが最後の審判です。
ヨーロッパでは長い間、審判者キリストは恐怖の対象でした。人々は教会堂の入口や正面に描かれた最後の審判の絵図に震えおののき、何とか天国に行けるようにと、教会に寄進し聖人たちにすがり聖母マリヤに執り成しを願いました。
しかし、キリストに結ばれた者にとって、聖書が示す世の終わりは決して恐怖ではありません。『信仰問答』が言う通り、キリストの再臨は「慰め」と「喜び」の時なのです。なぜなら「かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られる」からです。私を愛し、救ってくださった方が裁き主です。私を天国に入れるために御自身を犠牲にしてくださった方が審判者なのです。
私を愛し、救ってくださった方が裁き主です
私を天国に入れるために御自身を犠牲にしてくださった方が審判者なのです。
キリストの再臨とは、ですから、今は見えない主イエスと顔と顔とを合わせてお会いする時です。“私が信じていた方は本当におられた”と確信する瞬間です。その日、私たちだけでなくすべての人々は思い知ることでしょう。この方こそが真の神であられたと。聖書の言葉に偽りはなかったと。
その時、全能の主イエスはこの世を悲惨へと突き落とした悪そのものを「ことごとく永遠の刑罰に投げ込まれ」ます。そして、「わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです」。私のような者が、ただ主イエスに結ばれていたというそれだけで、主の御許へと迎え入れられ、天上の祝宴(黙示19:9)にあずかり、救いの栄冠をいただく(Uテモテ4:7-8)。キリストの現れとは救いの勝利の現れです。神の憐れみの完全な現れなのです。
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私たちは、その日を待ち望みつつ地上を歩み続けます。「あらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて」耐え忍びます。やがて来られる審判者自身がその悲しみを知っていてくださるからです。それを必ずや喜びへと変えてくださるからです。
私たちの地上の生涯は、つかの間の旅のようなものだと言えるでしょう。帰るべき場所は天の故郷です(ヘブライ11:13-16、フィリピ3:20)。ですから、過ぎ去る地上のことに心引かれないようにしましょう(コロサイ3:2)。むしろ、天国に行く身辺整理をすべきです。主イエスとお会いするために生活を整え、目を覚まして生きる。これがキリスト者のライフ・スタイルです。
キリストがいつ再臨なさるのか、その日その時を誰も知りません(マタイ25:13)。私たちの方が先に主の御許に召されるかもしれません。その時まで、与えられている地上の日々を励まし合いながら、心を高く上げて共に歩んでまいりましょう。
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