イエス・キリストの復活は本当に起こったのか、否か。それを問うことは一つのことです。しかし、もっと大切な問いは「それが私たちにとってどのような益をもたらす出来事だったのか」ということです。
イエス・キリストの生涯とその働きについて教える際、イエスの誕生・生涯・十字架・死・葬りという一連の出来事をキリストの「低い状態」または「へり下り」と呼ぶことがあります。それに対して、今回から学ぶイエスの復活・昇天・着座・再臨はキリストの「高い状態」または「高挙」と呼ばれます(例えば『ウエストミンスター小教理問答』など)。
ところが『ハイデルベルク信仰問答』は、大変興味深いことに、そのような区別をしないばかりか一貫してキリストの生涯が私たちにもたらす“益”について問い続けています(問36,問43,問45,問49,問51)。キリストの状態が低かろうが高かろうが、そのすべてがただ「私たちのため」であるとの強烈な確信に基づいているためです。
実際、キリストについての出来事はそれが事実であると証明されただけでは、何の意味ももたらしません。例えば、今回学ぶ「よみがえり」と言う出来事。果たして、死人がよみがえるなどと言う出来事が本当に起こりうるのか。現代人だけでなく、新約聖書が書かれた時代でも信じ難いことでした。使徒パウロはこう書いています。
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったら…、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリ15:12-14)。
しかし、真の問題は、キリストの復活という驚くべき出来事があったかどうかということ以上に、それがいったい何なのか、私に何の“益”をもたらすのかということなのです。イエスの誕生や十字架を疑う人はいないでしょうが、そこに自分との関係が打ち立てられない限り、それらの出来事が何の意味も持ち得ないのと同じです。
よみがえられた方の命が私の体の中で脈を打ち始めたのに、
どうしてこのままむなしく終わることがありえましょうか。
『信仰問答』は三つの益について教えています。第一の益は「この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる」ということです。キリストは死に打ち勝たれました。死という、人類が堕落して以来、誰も避けて通ることのできない悲惨にキリストは勝利されたのです。
これは単に息を吹き返して生き返ったと言うのではありません。息を吹き返した者はまた死にますが、キリストは死なない体によみがえられました。死の力そのものを滅ぼされたのです。それはまた、罪の力による呪われた死への勝利ですから、私たちに残されているのはただ神の義にあずかることだけです(ローマ4:25)。
第二の益は「わたしたちも今や新しい命に生き返らされている」ということです。イエス・キリストと結び合わされた者は、キリストと共に十字架で死んだのであり、そうしてまたキリストと共に新しい命に復活する、というのが聖書の教えです(ロマ6:5-11, エフェ2:4-6, コロ3:1-4)。なぜなら、復活された方御自身が今も生きておられるので、「その御力によって」私たちを“呼びさます”ことがおできになるからです。
第三に、そのようにしてキリストにある新しい命に呼びさまされた者にとって、キリストのよみがえりは自分自身の「祝福に満ちたよみがえりの確かな保証」となるのです。よみがえられた方の命が私の体の中で脈を打ち始めたのに、どうしてこのままむなしく終わることがありえましょうか。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ローマ8:11)。
大切なのは「祝福に満ちた」という言葉です。弱くもろい土の器に過ぎない私たちの肉体は、この世の苦痛や病にゆがめられているかもしれません。しかし、私たちは惨めな姿のままでよみがえるのではない。この罪深い私たちを体も魂も丸ごと愛してくださった主は、やがてこの肉体をも「御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」でありましょう(フィリ3:20-21)。
主イエスの復活は、その「確かな保証」また揺るがぬ希望の根拠なのです。
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