イエス・キリストの御生涯を一言で言い表せば、それは苦しみの生涯であったと『信仰問答』は教えています。その苦しみの意味を今回は学びましょう。
『新約聖書』の福音書という書物は単なる伝記ではなく、イエスの最後の七日間に集中して行く書物だと学びました。最後の七日間とは、まさにイエスが十字架へと赴かれる“ヴィア・ドロロサ”(苦難の道)です。イエスの御生涯とは、もう初めからこの道に向かっていたと言うことができましょう。
『使徒信条』はイエスの降誕から直ぐに苦難についての告白へ進んでいます。ただ細かい事を言えば、実は日本語の翻訳と原文とは多少ニュアンスの違いがあります。日本語では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあるので、イエスが裁判で苦しんだり鞭打たれて茨の冠をかぶせられたりした場面を想像するかもしれません。しかし、元の文章では「苦しみを受け」という言葉が先にあって、その後に「ポンテオ・ピラトのもとに」が続くのです。本問が「苦しみを受け」だけを先に扱っているのはそのためです。
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さて、このように読んでみると「苦しみを受け」とは、まさにキリストの「地上での御生涯のすべての時」であったことが明確になります。オギャーと産声をあげた時から十字架で息を引き取る時まで、その一刻一刻、全生涯、すべての時が苦しみの生涯であったというのです。もちろん、それは「その終わりにおいて」十字架上でクライマックスに達します。しかし、イエスはその時だけ苦しまれたのではない。その全生涯が苦難の生涯なのでした。
そもそも永遠の神の子が人間となること自体が異常なことでした。さらには肉体を持つ人間として、疲れや眠気や空腹、様々な誘惑・痛み・病を経験されました(イザヤ53:1-3)。それは創造された時のような輝かしい存在としての人間ではない、罪と悲惨にまみれた地上を這いつくばって生きる、神に呪われた人間としての生涯でした(創世3:17-19)。別に言えば、イエスの地上での苦しみの御生涯は「全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた」生涯だったということです。
私たちの生涯のどの一瞬もこのキリストと無関係な時はない…。
いったい何のために? それはこの方が「唯一のいけにえ」すなわち“罪を償ういけにえ”として「御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放」するためだったと聖書は告げています(ローマ3:25,1ヨハ2:2,4:10)。
ここに繰り返される「体と魂」という小さい言葉は大切です。イエスは神様だから魂は苦しむことなく、ただ体だけ苦しんだというのではない。また、あの体は見かけだけで、実際には苦しまなかったというのでもない。まさにイエスはまことの神またまことの人間として、全身全霊をもって神の怒りを負われたのです(問14)。それによって、わたしたちの「体と魂」を開放するためです。もしどちらか片方だけで苦しまれたのなら、私たちを丸ごと救うことにはならないでしょう。しかし、「体と魂」双方においてであるならば、わたしたちの体も魂もすべてが救われるのです(問1)。
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主イエス・キリストが地上での全生涯において私たちのために苦しんだということは、別に言えば、私たちの生涯のどの一瞬もこのキリストと無関係な時はないということです。私たちがキリストと関係を持ち始めるのは教会に来てからと思われるかもしれませんが、実はそうではありません。
キリストが御降誕の時に苦しまれたのは、私たちが母の胎内から担う罪の性質・神の怒りを贖うためです。地上でのすべての時が苦しみの生涯だったということは、私たちの生涯のすべての時がキリストによって担われているということです。とりわけ、その最後においてキリストが激しい苦痛の中で耐え忍ばれたのは、私たちが地上での最後の時に、たとい諸々の病や耐え難い苦痛に見舞われることがあったとしても、その時にもイエスが私たちの苦しみをすでに担ってくださったということです。実に私たちの全生涯は、キリストの苦難によって神の御怒りからも永遠の刑罰からも解放され、主が獲得してくださった「神の恵みと義と永遠の命」をまとうように招かれているのです。
確かに私たちの人生は依然として「涙の谷間」です(問26)。しかし、その私たちを背負ってくださる方(イザヤ46:3-4)がおられるとは、何という慰めでしょう!
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