聖書や礼拝の中で、イエス・キリストを指すいろいろな呼び方があることに気づかれると思います。その中に「独り子」や「主」という言葉があります。今回は、この独特な呼び方について学びましょう。
“わたしは神だ”と主張するような教祖には大きなクエスチョンマークが付きますが、「神の子」という言い方にはあまり抵抗感がないかもしれません。実際、パウロはギリシア詩人の言葉を引きながら「わたしたちは神の子孫」だとアテネの人々に語りかけています(使徒17:29)。けれども、パウロが伝えたかったのは(そんな言葉のアヤではなく)死者の中から復活したイエスにあって、私たちが本当に生ける真の神の子となることなのでした。
同様に信仰問答は、私たちが「神の子」であることを前提にして、なぜイエス・キリストが神の「独り子」と呼ばれるのかを問うています。そして「キリストだけが永遠からの本来の神の御子だから」と言うのです。「本来の」とは「本性上」ということで、神としての本来の御性質からして、この方だけが神の子と呼ばれる資格を持っておられるということです。
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人間は神になることはできません。神から永遠に生まれた方だけが真の神であり、また神の子と呼ばれるにふさわしい方なのです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)。“一人子”ではなく“独り子”と表記されていることに御注意ください。この方だけが、ということです。
それにもかかわらず私たちが「神の子」と呼ばれるのは、あくまでも「この方のおかげで、恵みによって」なのです。やがて詳しく学びますが、このイエスは私たちの身代わりとなって死んでくださった方です。御自分が持っておられた地位・名誉・栄光を私たちに譲ってくださったのです。そうして父なる神もまた、あたかも御子を愛するように私たちを愛してくださり、地上の親にまさって“天の父”となってくださいました(マタイ6:32,7:11)。これが救いの「恵み」です。
神から遠く離れて生きていた恩知らずな私が、主イエスのおかげで、今や幼子のように「アッバ、父よ」と呼びかけることができる者へと変えられました(ローマ8:15)。それはただ私たちが喜ぶためです。感謝にあふれるためです(1テサロニケ5:16-18)。このような輝かしい恵みをくださった御父を、私たち神の子らが心を合わせて高らかにほめたたえるためです(エフェソ1:6)。
「我らの主」があらゆる悪の力から私たちを守ってくださるでありましょう。
この方こそ、全能の神の「独り子」なのですから。
この神の独り子であられるイエス・キリストを、私たちはまた「主(しゅ)」と呼びます。これもまた独特な聖書の用語法でしょう。“世帯主”や“株主”などの言い方はあっても、単独で「主」と用いることはあまりないからです。
この「主(=キュリオス)」という言葉は、旧約聖書で神の御名の言い換えとして用いられていた「主(=アドナイ)」というヘブライ語に対応するギリシア語です。ですから「イエスは主である」という告白は、イエスが神であるという告白に他なりません(1コリント12:3)。さらに、この「主」には文字どおり“あるじ”との意味もあります。「我らの主」とはイエスこそ私たちの主人また主権者であるという意味なのです。
罪と悪魔の奴隷であった私たちをイエスが「解放しまた買い取ってくださり、わたしたちの体も魂もすべてを御自分のものとして」くださいました(問1参照)。しかも金や銀のような朽ち果てるものによってではなく、御自分の尊い血によって私たちを買い取ってくださいました(1ペトロ1:19)。滅びるしかない私たちを、御自分の命と同じ程価値あるものとみなしてくださったのです。
この方が私たちの「主」です。解放された私たちは、再び自分勝手に生きたいとは願いません。罪の奴隷に舞い戻るのがオチだからです。むしろイエスの僕として生きたい。私たちを愛してやまないイエスを私たちの「主」として誠心誠意お仕えしたい。
“私たちの主/私の主”という告白は、この方以外のものを主人にはしないということです。力をもって服従を強いようとする者たちに対して、この方以外の奴隷にはならないという意思表明です。私たち自身は情けないほどに弱い存在ですが「我らの主」があらゆる悪の力から私たちを守ってくださるでありましょう。この方こそ、全能の神の「独り子」なのですから。
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