キリスト教信仰の中心であるイエス・キリストについて学び始めました。前回の「イエス」という名に続いて、今回は「キリスト」という言葉の意味について学びましょう。
「キリスト」という言葉は、イエスの姓でも名でもありません。あえて言えば職名(肩書)のようなものです。“吉田牧師”と言うのと同じです。けれども、後には、ほとんど名前と同じくらい一体化した呼び名として定着しました。それほどまでに、イエスと言えばキリスト、キリストと言えばイエスなのです。それではこの「キリスト」とはいったいどのような働きを指すのでしょうか。
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「キリスト」という言葉は元のギリシャ語で“Χριστοs(クリストス)”と書きます。キリスト生誕を祝うクリスマスをX’masと書くのは、このギリシャ語の頭文字を使っているためです。しかしこの言葉は、おそらく当時のギリシャ人やローマ人など外国人にとってほとんど意味不明な言葉だったと思われます。「油注がれた者」という言葉だからです。何かの軟膏かポマードでも塗った人(?)と思われるのが関の山です。
実は、この「キリスト」なるギリシャ語、ヘブライ語の「メシア(油注がれた者)」をそのまま翻訳した言葉なのです。イエス・キリストとは、イエスこそ「メシア」ということに他なりません。
しかし、同じ言葉でもユダヤ人にとっては決して意味不明な言葉ではありませんでした。ユダヤにおいて「油を注ぐ」とは、神によって特別な職務に召された者という意味を持つからです。それはごく限られた預言者や祭司や王など、言わば神の代理者として働く人々に対してのみ施された儀式でした(出エジ28:41,1列王19:16参照)。
そこからユダヤの人々は、預言者たちが約束した神の救いの実現をもたらす人物を「メシア」として待ち望むようになりました(ヨハネ4:25)。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主“メシア”である」とクリスマスの夜に天使が告げたのは、まさにこのことです(ルカ2:11)。
しかし、それは多くのメシアたちの一人ではなく、神御自身によって任職され神によって力を与えられた唯一のメシアでした。イエスが洗礼をお受けになった時、天から降ってきた「聖霊によって油注がれ」、父なる神の御声によって任職されたからです(ルカ3:21-22。イザヤ61:1も参照)。三位一体の神が一丸となって実現なさる救いのエージェントが、この方なのです。
永遠の神の御子は・・・
ただ私たちを罪から贖うためだけに「キリスト」になられたのです。
イエスの働きを預言者・祭司・王という三つの働きから説明するのは、教会の古くからの伝統です。もちろん、神の大いなる救いの業をこれら三つだけでとらえることはできないかもしれません。しかし、旧約聖書のメッセージ全体がイエスに流れ込んで行くことを理解するためにとても便利な分け方なので覚えておきましょう。
イエスは「最高の預言者また教師」です。預言者とは神の言葉を取り次ぐ働きですが、この方はたんに御言葉を伝えただけでなく、何より御自身が神の言葉そのものであられました(ヨハネ1:1-18)。私たちには隠されていた救いに関する神の「熟慮と御意思」とを、地上での生涯全体において体現され「余すところなく」啓示なさったのです。
第二に、イエスは「唯一の大祭司」です。旧約時代の祭司の働きは多様です。しかし、中でも大祭司と呼ばれる人の重要な務めは、年に一度雄牛の血を携えて神殿の至聖所に入って自分自身と民全体の罪の赦しを得ること、そして民全体のために神に執り成すことでした。イエスはそれを「御自分の体による唯一の犠牲によって」成し遂げられたばかりか(ヘブライ9:6-14)、今や神の右に坐して「御父の面前でわたしたちのために絶えず執り成し」ておられる方なのです(ローマ8:34)。
最後に、イエスは「永遠の王」であられます。ダビデやソロモンは武力や知恵に物を言わせてこの世の国を統治しましたが、この方は「御自分の言葉と霊とによって」神の国とその御民を永遠に治め、私たちが安心して救いの中に憩えるようにあらゆる敵から「守り保ってくださるのです」。
これら三つの働きは、過去・現在・未来に亘って同時並行的になされ続けています。それはただ私たちのためです。永遠の神の御子は、預言者にも大祭司にも王にもなる必要などありませんでした。ただ私たちを罪から贖うためだけに「キリスト」になられたのです。
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