「人間の悲惨さ」についての学びの最後です。
『信仰問答』は、何とか言い逃れをしようとする私たちに一つ一つ答えて行きます。それは、すべての人間の知恵が絶たれ、ただ神の知恵が立ち現れるためです。
私たち人間の真の姿が“悲惨”以外の何物でもないという聖書の教えを学んできました。もちろん、そんなことは考えたくもなければ認めたくもないことでしょう。しかし、この問題を避けて次に進むことはできないのです。それで、『信仰問答』は、私たちの心の声を代弁するような問いを重ねつつ問題の核心へと一気に迫ってまいります。
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さて、問6〜8が人間の堕落と腐敗した性質についての教えだとすれば、問9からは神の律法と人間の罪についての教えです。神の律法を行うことはできないと率直に認めたはずの「わたし」(問5)が、ここではひるがえって神を糾弾し始めます。そもそもできないことを求める方が悪いと。あたかもスピード違反をしていながら“こんな道をノロノロ走れるはずないじゃないか。そんな非現実的な決まりを作る方が悪い!”と訴えているかのようです。
しかし、守れないのではありませんでした。簡単に守れたはずなのに、自分の意思でそれを無視したのです。何かとてつもなく難しいことを神が人にお命じになったのなら文句の一つも言えましょう。しかし、神がお命じになったのは、間違いようのないほどはっきりした「園の中央」にある木から食べてはならないという、ただそれだけでした(創世2:9,3:3)。守れるのに、守らなかった。悪いと知っていながら、誘惑に負けてしまった。人間は、昔も今も同じです。不正を犯しているのは神ではありません。私たちです。
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そうなると次の手は“今回は見逃して”ということでしょう。問10の「罰せずに見逃されるのですか」には、ひょっとしたら見逃してくれるかもという淡い期待が隠されています。しかしながら、答えは「断じてそうではありません」。それどころか、神の激しい怒りと裁きが明言されます。「生まれながらの罪」だけでなく「実際に犯した罪」に対しても。他人事ではすまされません。もし私たちも罪を犯しているのであるならば、アダムたちに対してのみならず私たちに対する神の裁きも免れ得ないのです。
神が罪を見逃されないのは、この方が永遠に生きておられる方だからです。寝ている神ならいざしらず、生きていればこそ、目の前で犯される罪を見逃すことはできないのです。けれどもそれは、ただ怒りにまかせた裁きなのではありません。脅しではなく書いてあるとおり、律法にしたがって極めて公平かつ客観的になされる裁きです。
警察の御用になった運転手には、見逃してもらおうといろいろと言い訳をする人がいるようです。そんな不従順な人に対する切り札は法律を持ち出すことだそうです。ごねれば何とかなると思えばいろいろするでしょう。しかし、決まりを曲げることはできません。これが公平かつ客観的な裁きというものです。私たち罪人への神の裁きは、実に公明正大に徹底的になされるのです。
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ここに至って万策尽きました。こうなると残る道は、もう慈悲にすがることだけです。「神は憐れみ深い方でもありませんか!」(問11)。考えてみれば、これも虫のいい話です。神の方が悪いと言っていた舌の根も乾かないうちに…。もちろん、聖書は、神が「憐れみ深い方」であることを教えています。しかし、神は「ただしい方」でもあられます。
私たちの神は「まあいいヨ」とはおっしゃらない。
私たちが犯した罪に対して真剣に立ち向かわれる。真剣だから怒るのです。
「至高の尊厳」に対する罪は「最高の刑罰」に値します。しかも人間が体と魂を持つ存在として造られた以上、「体と魂において」、すなわち全人的に裁きを受けねばならない。これが、正義と公平に基づく裁きなのです。
私たちの神は「まあいいヨ」とはおっしゃらない。決して、曖昧にはなさいません。私たちが犯した罪に対して真剣に立ち向かわれる。真剣だから怒るのですね。どうでもいいなら、ここまでなさることはないでしょう。しかし、人間を尊厳ある者として尊ぶなら、公平に扱わざるを得ないのです。神が裁きをなさるのは、正当な存在として私たちを認めておられるからにほかなりません。
しかし、義人ヨブでさえ、この神の視線に耐えることはできませんでした。なぜこんな虫けらのようなわたしにそこまで真剣になるのかと訴えます(ヨブ7:17-21)。その神がいかに真剣に人を救おうとされていたことか、まだ知らなかったからです。
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