月刊誌リジョイス 聖書日課 2021年10月 3日(日)

マルコ9章38-50節 塩としてのキリスト者

  

「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50)

 塩には腐敗を防ぐ働きがありますから、今日においても野菜を塩漬けにしたり、魚を塩漬けにしたりします。

 腐るということは、私たちの目に普段ありふれた現象ですが、神の目から見たときに、腐敗は罪と関係しています。本来、神が創造された被造物はそれ自体で美しく、それ自体で良かったのですが、アダムが罪を犯したために、神の被造物が腐敗させられるという事態が起こってしまいました。そこで神は、とくに罪によって汚されたご自身の民を贖い、元の状態に回復させるために、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、救いの御業を起こしてくださいました。ですから、主イエスこそ、罪に陥った人びとを聖別する塩であると言うことができるのです。

 それでは、私たちが塩気を持つとはどういう意味なのかと言いますと、私たちが主イエスを信じて、主イエスが、私たちを通して、世を清め分かち、腐敗を防止するということです。言い換えるなら、私たちが主イエスとの交わりに入れられて、そして、隣人に愛をもって仕えることこそ、私たちが自分自身に塩気を持つことなのです。

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