月刊誌リジョイス 聖書日課 2020年11月15日(日)

マタイ5章1-12節 失われない喜び

  

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

 今の私たちは、ここで主イエスがお語りになっておられるような迫害に遭っているわけではありません。けれども、信仰が周囲から受け入れられず、理解してもらえないこともあります。また、信仰を理由にして何らかの不利益を被ったり、嫌な思いや辛い思いをするということはいくらでもあるのではないでしょうか。

 主イエスは、そのような時にも自らの幸いを大いに喜ぶようにと私たちを招かれます。しかし、ここでの主イエスのお言葉は私たちの感覚には全く合わない教えのように感じられます。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」、そのようなことを幸いとするような人は誰もいません。主イエスもそのことはご存じで、そのことを幸いだと言われてはいません。

 ここでの幸いは、「わたしのため」という言葉で始まっています。主イエスのために何かをするということは、その人はいつでもどんな時にも主イエスと一緒にある、という意味です。主が共におられるという天にある幸いが今ここにあるのです。ですから、私たちはどのような時でも幸いです。この喜びは失われません。

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