月刊誌リジョイス 聖書日課 2020年9月 8日(火)

マタイ5章8節 心の清い人々は、幸いである

  

「心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)

 「清い」とは、よごれがなく、混じりけのないことです。「心の清い」とは、純粋さを妨げるような混じりものが心の中にないということです。

 主イエスは、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」とおっしゃって、濁りのない、澄んだ目を求められました(マタ6章22節)。真理を真っ直ぐに見つめる濁りのない目を保つのです。真理を見失うと、自分をも見失います。そうであってはならない。

 主イエスは幼子をご自分の前に立たせておっしゃいました。「天の国はこのような者たちのものである」(マタ19章14節)。幼子に罪がないということではありません。けれども、幼子には親を一途に信頼する純粋さがあります。物事の本質を見抜く澄んだ目があります。

 おとなの世界は複雑でしょう。けれども、幼子のような純粋さ、澄んだ目を失ってはなりません。主イエスが、その澄んだ目を回復させてくださいます。そして、その澄んだ目で人を見つめ、物事を見つめるのです。神は聖霊によって人の内に働かれます。人の内に神のお働きを認めて、神をほめたたえましょう。

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