月刊誌リジョイス 聖書日課 2017年7月22日(土)

ローマ6章 キリストに接ぎ木される神秘と生命

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。(ローマ6:6-7)

 主イエスは最後の晩餐で、御父を「農夫」、ご自身を「まことのぶどうの木」、弟子たちを「その枝」に譬え、枝が豊かな実を結ぶよう「わたしにつながっていなさい」とお命じになりました(ヨハ15章4節)。キリストと信徒たちは、実りを共有する生命共同体です。しかしこの絆は、初めからあったのではなく、あの十字架において結ばれたのです。

 使徒パウロは、キリストを「オリーブの木」、ユダヤ人を「栽培された枝」、我ら異邦人を「野生の枝」に譬えました。野生の枝が接ぎ木され、栽培された枝が一度は折り取られても再び接ぎ木されて、一つの生命共同体になると教えました(ロマ11章17節以下)。命の絆は、枝を剪定して接ぎ木する農夫の業、すなわち神の選びと召しにかかっています。

 神によって我らがキリストに接ぎ木され、その死のかたちに似せられるなら、その復活のかたちにも似せられます(同6章5節)。この神秘の決定的なしるしこそ洗礼であり、その生命の持続的な保証こそ聖餐です。

 洗礼を受けた私たちは、キリストに結びあわされているがゆえに、十字架と復活のキリストの養いに常に与ります。

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