月刊誌リジョイス 聖書日課 2015年3月11日(水)

イザヤ6章 それでも切り株は残る

なお、そこに十分の一が残るが
それも焼き尽くされる。
切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。
しかし、それでも切り株が残る。
その切り株とは聖なる種子である。(イザヤ6:13)

 イザヤ書6章は、預言者イザヤの召命を記した有名な箇所です。そこには、聖なる神の御前に、自分の罪の汚れにおののくイザヤの姿が描かれます。そして、そのイザヤに罪からの清めを体験させ、その上で「誰を遣わすべきか」と主は問われます。この主からの呼びかけに、イザヤは応えて言います。

 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(8節)。

 しかし、イザヤが伝えよと命じられた主の言葉は、不可解で恐ろしい内容でした。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな」。いったい誰が、理解されないために、喜んで宣べ伝えるでしょうか。神の言葉を宣べ伝える者には、その覚悟が必要です。どれほどわかりやすく、また誠意を尽くして御言葉を語ったとしても、すべての人が受け入れるわけではありません。

 この困難な使命の中で、イザヤは希望も聞かされます。「それでも切り株が残る」。主が聞く民を残してくださるので、大胆に御言葉を語ることができます。主なる神だけが人の心を開くことができるからです。

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