月刊誌リジョイス 聖書日課 2014年5月17日(土)

ヘブライ9章 天の聖所の礼拝

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブライ9:11-12)

 この手紙の著者は、旧約の祭儀には二つの欠陥があると指摘しています。それは、聖所への道がすべての人に開かれていないということと、聖所での礼拝は礼拝をする者の良心まで清くするものではない、ということでした。確かに至聖所には、一年に一度、大祭司しか入ることができません。また、神を礼拝する人の外面的な行為と実生活との間には、大きな隔たりがあったのでしょう。

 これとは対照的に、あのゴルゴタの丘に立てられたキリストの十字架は、天の見えざる聖所でささげられた、すべての人に開かれた礼拝でした。あの十字架の上で主イエスが息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタ27章51節)。年に一度、しかも大祭司しか近づくことができなかった至聖所の垂れ幕が裂けたというのは、キリストの十字架の死によって、誰もが神に近づくことができるようになった、ということのあらわれでしょう。天の聖所で献げられた御子キリストの犠牲によって、すべての者の罪が贖われ、良心までも清くされるという完全なる救いが成し遂げられたのです。

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