メッセージ: 弟子としての使命と栄誉(マタイ10:40〜42)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
日々の生活の中で、「自分の存在意義は何だろう」と考えたことはありませんか。仕事や家庭の忙しさの中で、時に私たちは、自分の役割や使命について迷いを感じることがあります。それは誰もが経験する自然な感情です。そんな時、聖書の言葉が私たちに、新たな視点と力強い励ましを与えてくれます。
そこできょうは「弟子としての使命と栄誉」というテーマで話を進めたいと考えています。少し堅苦しく聞こえるかもしれませんが、これは私たち信仰者としての一人ひとりの生き方に深く関係しています。特に、私たちが日々の中でどのように他者と向き合い、関わっていくべきかを教えてくれる重要な教えです。今回取り上げるイエス・キリストの言葉を通して、自分の役割や使命に新たな光を見出すことができるようにと期待しています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 10章40節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
今お読みした箇所は、イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝えるために12人の弟子たちを派遣するときに語られた一連の言葉の結びの部分です。イエス・キリストは弟子たちに対し、福音を伝えるという使命がいかに重要で栄誉あるものかを教えておられます。
最初に注目したいのは、弟子たちが派遣される働きが、イエス・キリストご自身と密接に結びついているという点です。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」という言葉は、弟子たちの働きが単なる個人的な活動ではなく、神の働きそのものであることを示しています。
弟子たちは単なるメッセンジャーではありません。イエス・キリストの代理人として、神の国を代表して遣わされる大使のような地位が与えられているということです。
神の国の大使であるという観点で弟子たちの働きを考えると、二つのことをいうことができます。ひとつは、大使といえども、その働きは決して自由奔放ではないということです。語るべき事柄やなすべき事柄は、お遣わしになるイエス・キリストがお命じになることに対して忠実でなければなりません。弟子たちは決して自分を宣伝するために派遣されるわけではありません。キリストがお命じになることに忠実であるときに、弟子たちの働きは単なる個人の働きではなく、神の国の働きとして受け入れられるということです。
もう一つの重要な点は、一国の大使が受け入れられるということは、単にその人が受け入れられているというのではなく、その人を遣わした国が受け入れられているということです。反対にその大使が拒絶されるということは、単にその人が個人的に拒絶されているのではなく、その背後にある国が拒絶されているということです。
イエス・キリストは、弟子たちが福音を伝える際に受け入れられるなら、それはキリストご自身が受け入れられていることになると語っておられます。さらに、キリストを受け入れることは、キリストを遣わされた父なる神を受け入れることにもつながるのだ、と語っておられます。このことから、弟子たちの使命がどれほど重要で、神の国の働きの中で中心的な役割を果たしているかが分かります。
この使命の重さと栄誉は、現代に生きる私たちにも当てはまります。私たち一人ひとりが神の福音を他者に伝えるとき、その働きは単なる人間的な行動ではなく、神の国の使者としての重みのある栄誉ある働きなのだということです。
次に注目すべきは、弟子たちを受け入れ、支える者たちへの報いについてです。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受ける」という言葉は、弟子たちを支えることの重要性を教えています。預言者や正しい者を受け入れることは、その使命を共に担うことを意味します。そのため、受け入れる者もまた、同じ報いを受けると約束されています。
さらに、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉には、非常に慰め深い真理が含まれています。弟子たちを支える行為がどんなに小さなものであっても、神の目には決して取るに足りないことではありません。
ところで、これらの一連の言葉は、遣わされていく弟子たちに対して語られた言葉です。その発言の中で、なぜキリストは遣わされた者を受け入れる者たちの報酬についてお語りになったのでしょうか。しかも、その報酬は福音を伝える者と同じ報いだというのです。
おそらく、それは弟子たちが高慢になることへの戒めとして語られたのだと考えられます。伝える弟子たちの働きも、それを迎え入れる者たちの行いも、神の目には等しく価値のあることとして描かれていることが重要です。一杯の水で弟子たちの働きを受け入れ支える者たちも神からの報いに値することを覚え、その者たちの働きを決して軽視してはならないのです。
現代においても、直接的に伝道活動を行わない人々が、祈りや経済的支援、また励ましの言葉を通して福音宣教に関わることができます。そのような支えの一つひとつが神の目に留められ、報いられるのです。
最後に、イエスが弟子たちを「小さな者」と呼んでいることに注目したいと思います。弟子たちは神の国の大使のような大きな務めを担っていますが、それと同時に「小さな者」として扱われています。この言葉には、弟子たちが謙遜さを持ち続けるべきであること、そして神の働きが人間の力や知恵ではなく、神ご自身の力によって進められることが示されています。
私たちも、神の働きに参与するときに、自分の力や名誉のためではなく、神の栄光のために仕えるべきです。また、自分が「小さな者」であることを認識しつつ、神の大きな計画の中で用いられる喜びを持ち続けるべきです。
さて、これらの聖書の言葉から学べることを、私たちの日常生活にどのように適用できるでしょうか。
私たちのほとんどは専門的な牧師や伝道師ではありませんが、イエス・キリストを信じる者として、福音を周りの人々に伝えることで、この一連の言葉を自分の信仰生活に適用することができるでしょう。また、福音宣教を専門的な働きとしている人たちをわずかにでも支えることで、この働きに参与することができます。
けれども、福音宣教に限らず、すべての営みがキリストから派遣されて、この世でなされているのだと考えるならば、自分の働きや務めに対する意識も変わって来るでしょう。また、それがどんな職業であれ、そうした働きに就いているキリストにある兄弟姉妹に対する見方も変わってくることでしょう。
何をなすにしても、キリストから遣わされた者として行うこと、これはすべてのクリスチャンにとって重要な働きです。