メッセージ: 剣をもたらす平和の君(マタイ10:34〜39)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「平和」という言葉を聞くとどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。穏やかで、争いのない状態でしょうか。それとも、すべてが調和している光景でしょうか。
ところが、今日の聖書の箇所では、驚くべきことにイエス・キリストが「平和ではなく剣をもたらすために来た」と語られています。一見矛盾しているように思えるこの言葉の意味を、ご一緒に探っていきたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 10章34節〜39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
今日取り上げた聖書の個所は、福音宣教のためにお遣わしになった弟子たちにイエス・キリストがお語りになった言葉ですが、とりわけ難解だと言われています。
イエス・キリストは確かに旧約聖書で予告されている「平和の君」(イザヤ9:5)として来られました。天使たちも「地には平和、御心にかなう人にあれ」と宣言しました(ルカ2:14)。さらに、イエス・キリストご自身も「平和を実現する人々は幸いである」と教えています(マタイ5:9)。
では、なぜここで「剣をもたらす」と言われたのでしょうか。
イエス・キリストが「平和ではなく剣をもたらす」と言われた背景には、当時のユダヤ社会における宗教的・社会的緊張がありました。旧約聖書の預言者、特にミカ書7章6節では、罪に満ちた社会の中で家族同士の対立が起こることが語られています。この箇所を受けて、イエス・キリストはご自身がもたらすものが、人間の罪のゆえに人々を分断する性質を持つことを示されたのです。
しかし、この「剣」とは武力や暴力ではなく、イエス・キリストへの信仰がもたらす選択と分裂の象徴です。イエス・キリストは人々に、真の神との平和をもたらすために、自らの立場を明確にするよう求められました。
また、この言葉は当時の弟子たちに大きな挑戦を突きつけました。イエス・キリストに従うことは、単なる社会的な習慣や道徳的な選択を超えて、自分自身の存在の根本を揺るがす決断を必要としたからです。それは、信仰を選ぶことによって生じる孤立や迫害、さらには家族や友人との関係の断絶という現実を意味していました。
イエス・キリストの「剣」とは、安易な妥協を拒み、神の真理に基づいて歩む人生を象徴しています。
イエス・キリストが語られた「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」という言葉は、非常に厳しいものに聞こえます。しかし、この言葉が示すのは、家族を軽視することを求める言葉ではありません。そうではなく、信仰の優先順位の問題です。
当時のユダヤ社会では、家族の絆が非常に強調されていました。そのため、家族を超えてイエス・キリストに従う決断をすることは、極めて困難な選択でした。イエス・キリストは、神を第一に愛することで、初めて真の愛を実現できると教えられたのです。
現代でも、家族や周囲の期待に縛られ、信仰を公にすることに戸惑う人がいるかもしれません。しかし、イエス・キリストは、私たちが神との関係を最優先にすることを求めておられます。
イエス・キリストの言葉は、愛の根本的な源が神にあることを示しています。家族を愛すること自体が否定されるのではなく、神との関係を中心に据えることで、家族関係がより豊かになるという視点を提供しているのです。この視点は、私たちが家族や社会との関係をどのように築くべきかについての示唆を与えてくれます。
イエス・キリストはさらに、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と語られました。当時、十字架は死刑の道具であり、この言葉は弟子たちにとって衝撃的だったに違いありません。しかし、イエス・キリストが意味する十字架とは、私たちが日々の生活の中で負うべき責任や試練、そして神に従うための犠牲を指します。それは、自分自身の欲望や恐れを捨て、イエス・キリストに従う道を選ぶことです。この言葉は、信仰が単なる心の中の思いではなく、具体的な行動を伴うものであることを教えています。
さらに、「自分の十字架を担う」という言葉には、個々の人生の中で特有の苦難や使命があることが含まれています。誰にとっても、その十字架は異なりますが、共通しているのは、それが私たちを神に近づけ、他者への愛を深めるものであるということです。この十字架を担う行為は、自己中心的な生き方を捨て、神と他者に仕える生き方へと転換することを意味します。イエス・キリストに従うことは、簡単ではありません。しかし、その道の先には真の自由と喜びが約束されています。この言葉は、現代を生きる私たちにも、神に従う覚悟と、日々の歩みの中で具体的に何を優先すべきかを問いかけています。
イエス・キリストがもたらす「平和」とは、罪に目をつぶった妥協の産物ではなく、神との完全な和解による平和です。それは、人間の努力で作り上げる一時的な調和ではなく、神の力によって実現されるものです。この真の平和を受け入れるためには、まず自分自身が神に立ち返り、罪を認め、神との関係を回復する必要があります。イエス・キリストへの信仰が家族や社会に一時的な分裂をもたらすことがあるとしても、それは真の平和への過程の一部なのです。信仰の道を歩む私たちには、神が約束してくださる最終的な平和が待っています。
この平和は、イエス・キリストが十字架と復活を通して成し遂げられた救いの業に根ざしています。罪の赦しを通してもたらされる内なる平和は、私たちの心を満たし、周囲の人々にその平和を広げる力となります。この平和は、争いを超えた和解と赦しの力をもたらします。他者との関係の中で神の愛を反映するようにと私たちは招かれているからです。
イエス・キリストが語られた平和は、単なる感情や環境の変化ではなく、神の国の到来を象徴するものです。その実現を信じて歩むことで、私たちは日々の困難の中にも希望を見いだし、永遠の平安に向かう道を進むことができるのです。何よりも、困難の中にあっても、イエス・キリストは私たちといつも共にいてくださいます。