メッセージ: 主の祈り(マタイ6:9-15)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしはクリスチャンの家庭に生まれ育ったのではありませんので、祈りの言葉を習得したのは、教会に通い始めた十代も半ばを過ぎた頃からでした。そのお手本は牧師や宣教師の奉げる祈りの言葉でした。
大学生になってから他の教派のクリスチャンたちと出会い、一緒に祈る機会を与えられて、祈りの言葉やスタイルにも教派によって随分と違いがあることを知りました。それぞれ長い歴史の中ではぐくまれてきた伝統がありますから、それはそれで大変興味深い経験でした。
プロテスタント教会の伝統では、祈祷書などの定まった言葉で祈るよりも、自由な言葉で祈ることが多いと思いますが、「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉は、翻訳の違いは別として、カトリック教会でもプロテスタント教会でも共通の言葉で祈っています。
きょうはその「主の祈り」についてマタイによる福音書から取り上げたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 6章9節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
前回の学びでは、イエス・キリストの「祈り」についての教えから学びました。今日の個所にはイエス・キリストご自身が弟子たちに教えられた祈りの具体的な言葉が記されています。いわゆる「主の祈り」と呼ばれる祈りです。
祈りの内容は大きく二つに分けることができます。前半は祈りを奉げる相手である、神ご自身に関わる内容です。それに対して、後半は私たちに直接関わる願いが記されています。そして、それぞれ三つの祈願で構成されています。
まず出だしは、神への呼びかけで始まります。神への呼びかけは、旧約聖書の中に記された祈りの言葉にたくさんの実例がありますが、イエス・キリストは神を「わたしたちの父よ」と呼びかけます。旧約聖書に記された祈りの実例と比べて、神を「父」と呼びかける例は非常に珍しいということができます。言い換えれば、ここにイエス・キリストが教えておられる祈りの特徴があるということです。
後に使徒パウロは、その手紙の中で「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」と記しています(ガラテヤ4:6)。私たちが神を父と呼ぶことができるのは、私たちが神の子であるイエス・キリストと結びついているからです。そういう意味で、この主の祈りは、正にイエス・キリストと結びつき、神の子の霊に生かされたキリスト者の祈りということができます。
神への呼びかけに続いて、イエス・キリストは神に関わる三つの祈願をまず唱えるようにと教えています。神に関わることと言いましたが、それは私たちに関係のないことでは決してありません。いえ、むしろ、私たちにとって重要な事柄です。しかし、そうであるにもかかわらず、祈るときにしばしば忘れられてしまいがちな事柄です。
その三つとは、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」という三つです。
神の御名よりも人の名声が尊ばれるこの世界にあって、何を第一とすべきかをこの祈りは教えています。まことの王である神のご支配のもとに世界が正しく秩序づけられ、神の御心がこの地上で行われることを願う祈りです。
もちろん、天地創造の時以来、この世界は片時も神の手が届かない世界ではありませんでしたし、神はご自分の御心を実現できないお方ではありませんでした。けれども、人間の罪と堕落のために、人々の目には神のご支配は明瞭ではなくなり、神の御心を求めようとしない人間の行いによって、悲惨さばかりが目立つ世界となってしまいました。
このような世界に生きる信仰者であるからこそ、何よりも神が神として崇められることを願い、神に従い、神の御心が実現することを願い求めることが大切なのです。
後半の三つはわたしたちと直接に関わる事柄です。それは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という願いです。
わたしたちに必要な糧とは、文字通りのパンばかりではありません。そこには私たちに必要なすべてが含まれています。
そう祈ることで、そのことを祈る私たちの神への誠実さが問われています。不必要なものまでも神に願い求めてはいないか、逆に必要なものすら神に願い求めず、あたかも自分で何とかできると思い上がってはいないか、この祈りの言葉は祈る者の心に問いを投げかけています。
私たちのために祈る第二の事柄は、罪の赦しを願う祈りです。ここでは究極的に罪を赦す権威のあるお方が、神ご自身であるということが前提になっています。それと同時に、人間関係の中で、わたしたちが互いに罪を犯したり、赦したりする関係であることも前提になっています。そのような関係に生きる私たちが、ただ私だけが罪赦されることを願うことはできません。まして、キリストの十字架によって罪の赦しをいただいている者たちは、罪を赦せない者になってはいけません。この祈りは、罪を赦された者の生き方が同時に問われている祈りです。
私たちに関わる第三の願いは、誘惑から解放し、悪しき者から救い出してくださるようにという祈りです。クリスチャンはキリストの救いの業を通して罪が赦された存在です。けれども、罪の誘惑の中に留まり続けてよい存在ではありません。
また、罪の誘惑に打ち勝つことのできる強い存在でもありません。誘惑からの解放と罪の赦しの願いはいつでもクリスチャンの捧げるべき祈りなのです。
最後に、この祈りの中では「私たち」という言葉が繰り返されています。「主の祈り」は個人の祈りというよりは、共同体の祈りです。わたしとともに主のものとされた者たちを思い、その人たちと共に心を合わせて祈る祈りなのです。