メッセージ: 与えられた者たちのための祈り(ヨハネ17:9-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
死者の中から復活されたイエス・キリストは、復活から40日たって、もと居た父なる神の御許にお帰りになりました。弟子たちからしてみれば、自分たちを取り残して去って行ってしまうように思えたかもしれません。
しかし、このことが起こる前に、主イエス・キリストは弟子たちのために祈りました。いわゆる「最後の晩餐」の席上で、この地上に残される弟子たちのためにキリストが長い祈りを献げたことが、ヨハネによる福音書の17章に記されています。
きょうは、そのキリストの祈りの言葉から、ご一緒に学びたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書17章9節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
きょうはこのイエス・キリストの祈りの言葉から三つのことを学びたいと思います。
第一に、この祈りの対象は、「(父が)わたしに与えてくださった人々」のための祈りであるということです。「父がわたしに与えてくださった」という表現は、ヨハネによる福音書の中では繰り返し出てくる重要な表現です。
例えば、イエス・キリストは「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネ6:37)とおっしゃっています。また父なる神の御心について
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ6:39)とお語りになっています。
弟子のひとりに「ナタナエル」という名前の弟子がいますが、「ナタナエル」という名前の意味は「神がお与えになった者」という意味です。ですから、象徴的な意味のある名前を持った弟子ということができます。ある意味で、キリストに従うものは皆「ナタナエル」であり、父なる神に属し、父から御子イエス・キリストへと与えられた者たちなのです。
さて、ここで大切なことは、「父なる神がキリストに与えた人々」が誰なのかを詮索することではありません。あるいは、自分はその人々に含まれているのか、疑心暗鬼になることでもありません。そうではなく、イエス・キリストはご自分に従う者たちを「神から与えられた人々」と捉え、そう呼んでくださっていることに注意を払うべきです。「父から与えられたもの」として、キリストに従う人々一人ひとりを見てくださっているということです。
先ほど引用した言葉の中に「わたしは決して追い出さない」とか「一人も失わないで」と言われていましたが、それほどに大切な一人として、イエス・キリストは父から与えられた者たちを扱ってくださっているのです。そして、ここで献げられる祈りも例外ではありません。ご自分に従う者たちを父から与えられた一人と思い、一人ひとりへの愛を示された祈りです。
キリストの祈りの言葉から学びたい第二の点は、父なる神の御名の力への信頼です。
イエス・キリストはこう祈っています。
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」(ヨハネ17:11)
神の御名には力があり、権威があることは旧約聖書から続く教えであり、信仰です。そうであればこそ、十戒の第三戒では、主の名をみだりに唱えることが戒められています。言い換えれば、それは頼るべき時には、このお方の力と権威に信頼して、ふさわしく御名を呼ばわれ、ということです。軽々しく神の名を口に挙げることと、真摯に神の力に信頼することとは全く違うことです。
この祈りの中で、イエス・キリストは父なる神の御名に全くの信頼を寄せて、その力と権威によって弟子たちを守ってくださるようにと願っています。その通り、神の御名には力があるからです。
パウロは、イエス・キリストを信じる者のことを、神の者とされ(エフェソ1:14)、キリストのものであることを証しする焼き印が押されたものだと表現しています(ガラテヤ6:17)。神のブランド名がその身に押されているのですから、神はその名に懸けて、弟子たちを確かに守ってくださいます。
このキリストの祈りは、わたしたちの祈りでもあります。御名に信頼して祈るときに、父なる神から御子イエス・キリストに与えられた者たちの平和と安全とが守られるのです。
この個所から学びたい第三の点は、この祈りが弟子たちの一致のために献げられた祈りであるということです。
キリストはやがて父のもとへとお帰りになることをご存じで、この祈りを献げています。その祈りは、何よりもこの地上にあって、弟子たちが守られることでした。しかし、キリストは彼らが守られることばかりではなく、一つであること、一致していることを願いました。
その一致の基礎は、父なる神と御子イエス・キリストが一つであることにありました。ヨハネによる福音書の中では、父なる神とその子であるイエス・キリストとの一致が何度も強調されています。その一致を弟子たちへと押し広げ、彼らがその一致を味わい、彼ら自身の中にも実現されることを願っています。
外から来る攻撃から守られることも大切ですが、それ以上に大切なことは、内部から起こる分裂を未然に防ぐことです。人間である弟子たちが集まる教会には、常に分裂の要素があることは否定することができません。なぜなら、人間である以上、罪の影響に常にさらされているからです。
けれども、この祈りは決して絶望的な祈りではありません。悲壮感が漂う祈りでもありません。なぜなら、弟子たちは父なる神に属する者たちであり、父が御子イエスにお与えになった人々だからです。そういう意味で、父なる神と御子イエス・キリストとの間にある一致の中にすでに置かれている人々です。その一致が保たれること、その一致を意識して、前に進んでいくこと、そのための祈りです。
イエス・キリストが再びこの地上にやってこられる再臨の日まで、教会とそこに集う信徒たちは、イエス・キリストのこの執り成しの祈りに支えられ、守られています。そして、この同じ祈りをわたしたちもキリストとともに献げていくものとなりましょう。