ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書をどう読むか、これはとても大切なことです。それをただ生活に役立つ処世訓のように読むのか、はたまた神話の一つとして読むのか、あるいは自分の救いにかかわる大切な教えが記された書物として読むのか、その読み方で全く違ってきます。
同じ救いにかかわる書物として読むにしても、読み方によっては、そこから受け取る内容が異なり、形作られる信仰の内容も違ってきます。
イエス・キリストはその当時のユダヤ人たちと議論する中で、こんなことをおっしゃいました。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)
ここでいう「聖書」とは、厳密には旧約聖書のことですが、聖書全体を救い主であるイエス・キリストと結び付けて読む読み方こそ、キリスト教会の聖書の読み方です。そのように聖書を読むときにこそ、キリストがなしてくださった救いの御業全体を正しく理解できるのです。
きょう取り上げる個所にも聖書全体を解き明かすイエス・キリストの姿が描かれています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ルカによる福音書24章13節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ここに描かれているのは。イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られてから3日目の夕方の出来事です。イエス・キリストが十字架の上で処刑された出来事は、弟子たちには衝撃的な出来事でした。そればかりか、3日目のこの朝に、キリストの遺体を葬ったはずの墓が空になっていたという事件が起こりました。ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で3日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。