聖書を開こう 2023年4月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  聖書を解き明かされる主(ルカ24:13-25)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書をどう読むか、これはとても大切なことです。それをただ生活に役立つ処世訓のように読むのか、はたまた神話の一つとして読むのか、あるいは自分の救いにかかわる大切な教えが記された書物として読むのか、その読み方で全く違ってきます。

 同じ救いにかかわる書物として読むにしても、読み方によっては、そこから受け取る内容が異なり、形作られる信仰の内容も違ってきます。

 イエス・キリストはその当時のユダヤ人たちと議論する中で、こんなことをおっしゃいました。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)

 ここでいう「聖書」とは、厳密には旧約聖書のことですが、聖書全体を救い主であるイエス・キリストと結び付けて読む読み方こそ、キリスト教会の聖書の読み方です。そのように聖書を読むときにこそ、キリストがなしてくださった救いの御業全体を正しく理解できるのです。

 きょう取り上げる個所にも聖書全体を解き明かすイエス・キリストの姿が描かれています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ルカによる福音書24章13節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で3日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 ここに描かれているのは。イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られてから3日目の夕方の出来事です。イエス・キリストが十字架の上で処刑された出来事は、弟子たちには衝撃的な出来事でした。そればかりか、3日目のこの朝に、キリストの遺体を葬ったはずの墓が空になっていたという事件が起こりました。

 この時の弟子たちには「空の墓」が何を意味するのか、受けとめる余裕もありませんでした。

 きょう取り上げたこの箇所には、失意のうちにエルサレムを離れる二人の旅人の姿が描かれています。彼らは復活したキリストが姿を現し、彼らと共に歩いているにもかかわらず、そのことに気が付きません。聖書は「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と記しています。

 「二人の目が遮られていた」というのはどういうことでしょう。物理的にものが見えなかったというのではありません。そこに人がいるのは分かっていても、それがイエス・キリストだと気が付くことができなかったのです。心の目が閉ざされていたと言っても良いでしょう。

 なぜなら、彼らの心は、この数日間で起きた出来事のことで心がいっぱいだったからです。復活のキリストから話しかけられても、暗い顔で答えることしかできないほど、思いは悲観的になっていました。裏を返せば、それほどイエス・キリストに期待していたということです。この期待が十字架の出来事によって一気に覆され、失意のうちにエルサレムを去るしかなかったのです。

 しかし、彼らの期待は正しかったのでしょうか。彼らは聖書全体をどう読んで、そのような期待を抱いたのでしょう。彼らは復活のキリストとは思わずに、自分たちの期待してきたことや起こった出来事をとうとうと語ります。

 イエス・キリストはその二人の弟子たちにおっしゃいます。

 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」

 イエス・キリストはこの弟子たちの問題点をそう指摘します。この数日間に起こった出来事は、確かに弟子たちにとってはすべてを覆すほどの衝撃的な出来事だったことは否めません。しかし、問題は起こった出来事自体の大きさにあるのではありません。そうではなく、それを受けとめるために知っておかなければならない預言者の言葉に、彼らが十分に心をとめていなかったからです。

 このエマオへ向かう弟子たちの話から教えられることは、キリストが復活したという事実は、復活したキリストが姿を現すことで、誰もが信じることができるようになる、というものではないということです。

 預言者たちを通して神が語って来られたことを信じることができなければ、復活という事実を目の当たりにしたとしても、それでもそこに復活のキリストの姿を認めることができないのです。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

 これが、預言者たちが語ってきたメッセージだとイエス・キリストは解き明かされます。しかも、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」、御自分について書かれていることを余すところなく説明されたのです。

 キリスト教会がイエス・キリストの復活を信じているのは、ただ、それが事実であったということだけによるのではありません。そうではなく、キリストの救いの御業全体を、旧約聖書の指し示すところに従って理解し、受け入れるときにはじめて、キリストの復活の事実とその意味を信じることができるのです。

 このように聖書を解き明かしてくださるイエス・キリストの聖書の解き明かしを通して、キリスト教会はキリストの復活に心が開かれていったのです。

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