聖書を開こう 2022年12月8日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イエス・キリストの示した模範(フィリピ2:5-11)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ラテン語の本に「デ・イミタチオーネ・クリスティ」)という本があります。日本語では『キリストにならいて』と訳されています。15世紀頃にトマス・ア・ケンピスという人が書いたと言われています。信仰の修養の書として有名で、日本でもキリスト教の伝来とともに早くも日本語訳が現れました。

 この本の題名はクリスチャンの生き方をとてもよく表していると思います。パウロもコリントの信徒への手紙11章1節で自分のことを「キリストに倣うものである」と述べています。きょうこれからお読みする個所では、へりくだりの模範として、それに倣うようにとキリストの生涯が紹介されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 2章5節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 前回の学びでは、共同体としての教会の一員であるクリスチャン一人ひとりが、心を合わせ思いを一つにするようにというパウロの勧めを学びました。そして、そのためには「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることの大切さをパウロは指摘しました。きょうはその続きからです。

 「互いにこのことを心がけなさい」とパウロは記します。「このこと」というのは前回取り上げた「一致の思い」「謙遜の心」と言うことができます。「互いに…心がけなさい」あるいは「あなた方の間で心がけなさい」とパウロが勧めているのは、クリスチャンとしての個人的な生き方ではなく、共同体としてのクリスチャンの生き方を問題にしていることは明らかです。

 そして、「それはキリストにも見られることです」とパウロは述べて、キリストのうちにある謙遜の模範を指し示します。

 6節以下はこのキリストを受けて、キリストの御業を称える賛歌が記されます。この6節から11節までの部分は初代教会のキリスト賛歌あるいは信仰告白文から引用されたものであろうと考えられています。とても美しい詩の形をとっていることは、多くの聖書学者たちが認めているとおりです。

 内容的には前半が十字架の死に至るまでのキリストのへりくだり、後半はあらゆる名にまさる名を与えられたキリストが高く挙げられたことをテーマとしています。

 パウロがこのような詩文を引用した狙いは、いうまでもなく、この詩文の前後に記されたパウロの勧めの言葉からも明らかです。

 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」(3節)「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)

 パウロは第一にキリストのへりくだった生き方を模範としてフィリピの教会の人たちに提示しています。キリストは神と等しいお方であるにもかかわらず、僕の姿を取ってこの世に来られ、人々の罪の贖いのために十字架の死をも受け止められたお方です。このキリストの謙遜に倣う時に、フィリピの教会は心を合わせ、思いを一つにすることができるのです。

 しかし、謙遜の模範と言うだけならば、後半のキリストが高く挙げられた部分は必要でないように思われます。けれども、パウロはあえてキリストの賛歌全体を取り上げて、キリストの救いの御業全体を思い起こさせようとしています。このキリストの救いの御業を通して、クリスチャンとして救いに与っているのですから、その救いに基礎を置いて、へりくだった心、一致した思いで過ごすことが求められているのです。そのようにして、従順で恐れおののきつつ、自分の救いの達成に努めるようにとパウロは勧めています。

 さて、もう少しパウロが引用したキリスト賛歌を詳しく見てみましょう。

 先ほども簡単に触れましたが、6節から8節までが前半で、キリストのへりくだりと従順さが歌われています。そのへりくだりについて見てみると、人として地上に遣わされる前のことが歌われています。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思われなかった」

 この句は積極的にではありませんが、キリストが神の身分であること、神と等しい者であることを歌っています。今でこそ「イエス・キリストは神である」という信仰は、キリスト教会の共通した信仰ですが、キリストの復活から20年程しかたっていない教会が、はっきりとキリストの神性について歌っていると言うのは驚きです。

 もちろん、この賛歌の前半の主旨は、キリストが神であることを積極的に歌ったものではなく、むしろ、そうした身分を捨てて、僕の身分となって、人間と等しくなるまでにへりくだられたことを歌ったものです。そのへりくだりは死に至るまでのへりくだりです。神は死んだりはしませんが、人間は死をまぬかれることが出来ません。そういう意味で、キリストは徹底して神の身分を捨てて人間になられたのです。

 確かにイエス・キリストは特別なお方ですから、わたしたちはここまで徹底した謙遜を真似ることは出来ないかもしれません。しかし、へりくだりの模範を目の前に置くことは大切なことです。キリストに倣い、キリストを模範として生きる時、キリスト者にふさわしく形作られていくようになるからです。

 先ほども少し触れましたが、この歌の後半は高く挙げられたキリストへの賛美を歌い上げます。そして、謙遜の模範ということでこの歌が引用されたのだとすれば、後半は蛇足かもしれません。しかし、そもそもキリストの救いの御業は、十字架の死と復活があって完成するものです。そして、その救いの完成の結果、フィリピの教会の人々はクリスチャンとして立てられているのですから、パウロはキリストのへりくだりと高く挙げられたことの両方に触れたのでしょう。

 また、同時に、キリストが高く挙げられたことは、キリストに倣うわたしたちへの約束とも受け取れます。虚栄心からしたことは、結局は本当に人間を高めるものではありません、しかし、キリストの謙遜をもって生きる人は、キリストと同じように栄光へと引き上げて頂くことができるのです。

Copyright (C) 2022 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.