聖書を開こう 2022年9月29日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  私たちの献げるいけにえ(ヘブライ13:12-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会の礼拝堂の中は、とてもシンプルな作りです、聖書の御言葉を解き明かす講壇と聖餐式を執り行う聖餐卓があるだけです。もちろん、礼拝にあずかる人たちが座る椅子と賛美をリードする楽器が置かれていますが、それでも、他の宗教と比べるとシンプルな作りです。何となれば、貸しビルの一室でさえ、礼拝堂として利用している教会もあります。

 これは他の宗教から見ると、およそ宗教的な雰囲気がない施設のように思われるかもしれません。こんな場所で一体どうやって礼拝を行うのか疑問さえ感じるかもしれません。もちろん、長い歴史のあるヨーロッパには、きらびやかな教会もたくさんあります。しかし、それが教会の本質であると考えているわけではありません。

 キリスト教会がユダヤ教から分かれていく中で、やがてはエルサレムの神殿での礼拝からも決別していくようになりました。それは、割礼を受けていない異邦人を信徒に持つキリスト教を、神殿の中に入れたくないという、ユダヤ教の側からの拒絶もあったでしょう。また、そうかといって別な神殿を建てるほどキリスト教会に経済的な余裕があるはずもありません。しかし、キリスト教会が神殿や犠牲を献げる祭壇を持たなかったのは、そうした消極的な理由からではありませんでした。この手紙の著者が語ってきたように、そこには教理的な理由がありました。というのは神ご自身が、キリストによってそれらの建物や制度を廃止されたからです。

 けれども、そのことは礼拝そのものが廃止されたということではありません。また、献げるべきものがなくなってしまったということでもありません。クリスチャンには自分たちの献げるべき礼拝の理念がありました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 13章12節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。

 前回の学びでは、この手紙の受取人たちが直接教えを受けてきた指導者たちのことを思い出すようにとの勧めが記されていました。また、指導者たちが遺した信仰の模範に倣い、様々な教えに惑わされることなく、変わることのないイエス・キリストに従うようにと勧められました。その様々な教えの中で、当時の教会が直面する問題に、食べ物についての規定がありました。もちろん、そうした古い規定から教会は自覚的に決別していました。それらは、イエス・キリストがもたらした救いによって凌駕され、廃棄されてしまったからです。それでも、なお、食物規定について手紙の中で触れなければならなかったのは、この問題がユダヤ人たちの生活にどれほど深く根を張っていたかということです。

 この食物の規定について、前回取り上げた個所では、食物の規定に従って生活した者は、何も益を受けないと断言されていました。では、どういう生活が、キリスト者にふさわしく、また益をもたらすのでしょうか。

 この手紙の著者は、罪の贖いとしてご自身を献げたイエス・キリストに読者たちの目を向けさせています。イエス・キリストは罪を贖う犠牲としてご自身を献げられましたが、贖罪日に献げられる動物犠牲の体が宿営の外で焼かれたように、イエス・キリストご自身もまたエルサレムの都の外で苦難を受けられました。

 この点に着目した著者は、このキリストの辱めを担い、外に出て、キリストのもとに赴こうと呼びかけます。それは古い契約のもとでの生き方からの決別であると同時に、十字架の苦難と辱めを担う覚悟でもあります。古い契約のもとでは、宿営のなかこそ、清い場所であり、神の守りがある場所でした。その宿営を出ることは、よほどの確信がなければできることではりません。確かに古い契約のもとに生きている限り、ここから外へ出るなどという発想は生まれません。しかし、新しい契約の下では、そうではありません。今や、神はキリストを通して私たちを罪から清め、わたしたちと出会ってくださいます。キリストと共にいること、それが神と出会う道であり、神の祝福にあずかる道だからです。

 そうであるとするなら、信仰のゆえに受けるこの世的な苦難も辱めも取るに足りないことです。主イエス・キリストが約束してくださったように、キリストの名のゆえに苦難を受ける者は幸いなのです。

 イエス・キリストはおっしゃいました。

 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイ5:11)

 逆説的とも言えるこのキリストの言葉は、イエス・キリストのもとにこそまことの安全と平安とがあることを証ししています。

 この手紙の著者は、ここで再び天上にある神の都に読者たちの心を向けさせます。既に11章13節以下で、真の信仰者たちが目指す天の都について取り上げられていました。この世にあっては寄留者として生き、真の故郷である天の都を待ち望む生き方、それが信仰者の姿でした。宿営を出て、キリストのもとに行くこと、これはあてどのない旅に出るのとは違います。天上の都を目指す、行く先のはっきりとした旅なのです。この地上には永続する都がないというのは、信仰者たちの確信です。ですから、元居た場所に再び後戻りするという選択肢はありません。

 この世にあっては寄留者のように生きる信仰者たちですが、この地上にあっても神を礼拝し続けます。古い契約のもとで行われていた礼拝とは様式が異なりますが、献げるべきものを持たない訳ではありません。それは動物の犠牲やいけにえではなく、イエス・キリストを通して献げられる「賛美のいけにえ」と呼ばれています。すでにイエス・キリストによって贖われているのですから、罪の贖いのための犠牲は必要ではありません。イエス・キリストを通して神の御前に大胆に進み出て、救いへの感謝を声高らかに歌い、神をほめたたえること、これこそが救われた者が献げるいけにえです。

 この手紙の著者は、この賛美のいけにえを絶えず献げるようにと勧めています。なぜなら、神の恵みは絶えることがないからです。

 さらに、それに加えて、「善い行いと施しとを忘れないように」と勧めます。善い行いも施しも、救われるために行うのではありません。既に救われているからこそ、その恵みに感謝して、神の御心に従う生き方が生まれるのです。神から豊かに与えられているからこそ、施す心も豊かにされているのです。そのような心から生まれるいけにえこそが、神に喜ばれる献げ物なのです。

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