メッセージ: 兄弟愛に生きる(ヘブライ13:1-6)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
およそ1年間続いた「へブライ人ヘの手紙」の学びも、いよいよ最後の章になりました。この手紙は今の時代に生きるわたしたちには、ところどころ分かりにくい個所もありました。しかし、この手紙の著者が持っているイエス・キリストがもたらした救いに対する確信は、今のわたしたちにも変わることがありません。手紙の全部を理解できなかったとしても、主要な点はつかめていただけたと思います。
きょうから取り上げようとしている13章は、クリスチャンとして生きる上での、倫理的な実践の勧めの言葉が記されています。新約聖書の中にある他のどの手紙もそうですが、教理に関わる教えと倫理的な実践の勧めとがバランスよく扱われています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 13章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」
きょう取り上げた個所には、一見箇条書き的にいろいろなことが勧められているように感じられます。しかし、その内容を見ると、十戒の後半で求められている事柄に行きつきます。
主イエス・キリストは最も大切な掟として、神への愛と人への愛を強調されましたが(マルコ12:28-31)、十戒の第五戒から第十戒までは、人への愛に関わる教えです。
きょうの個所で、手紙の著者が勧めているのは、兄弟愛の問題です。兄弟といっても、血のつながりがある、文字通りの兄弟のことではありません。神を父とした、教会という共同体のメンバーがここでは「兄弟姉妹」として著者の念頭にあります。というのも、この手紙が「兄弟」という言葉を使うときには、共同体の内部の人がその念頭にあることは明らかだからです(ヘブライ2:11, 12, 17; 3:12; 10:19)。
もちろん、教会の外にいる人たちに対する愛をなおざりにしてよいというわけではありません。主イエス・キリストが教えて下さったように、「誰がわたしの隣人か」と問うのではなく、自分が誰かの隣人となることが大切です(ルカ10:36)。そして、そのような愛はまずは身近なところから始めることが大切です。その意味で、この手紙の著者は「兄弟愛」からその実践を勧めています。身近にいる人を大切にできない人が、どうして関わりのない人を愛することができるでしょうか。
この兄弟愛についての勧めの言葉は、「兄弟愛をずっと存続させよ」という言い方です。ないものを生み出せと言っているのではありません。すでにある兄弟愛をこれからも続けるようにというのが著者の願いです。
もう少し先を読み進めると、兄弟愛の具体的な実践場面が描かれます。それは、旅人をもてなす、ということです。旅人をもてなす習慣は、当時の人たちにとって、クリスチャンに限らず広く知られていた習慣でした。今日ほどホテルが乱立している時代ではありませんでしたから、旅人を家でもてなす機会はもっと多かったと思われます。
しかし、どんな時代にも悪い人間がいますから、旅人をもてなすにはリスクが伴います。自称クリスチャンという人をもてなしたがために、迷惑をこうむることもあったようです。そこで使徒教父の文書の一つ、『十二使徒の教訓』(ディダケー)には、そうした偽預言者を見分ける指針が記されています。例えば、3日以上も滞在する者や出発するときに金銭を要求する者は偽預言者であると警告されています。
けれども、あまりにも用心してしまえば、兄弟愛はどんどん委縮してしまいます。だからこそ、「兄弟愛を存続させよ」と励ましているのでしょう。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)とおっしゃるイエス・キリストの言葉はいつも思い出される必要があります。
兄弟愛の具体的な実践のもう一つの場面は、牢に捕らわれている人たちを思いやり、虐待されている人たちに心をとめることです。おそらく著者がここで念頭に置いているのは、信仰のゆえに囚われの身となった人たちのことだと思われます。今の日本の状況では、信仰のために牢獄に入れられるということはありませんが、世界には未だに宗教上の理由で迫害を受け、投獄される人たちがいます。そうした人たちのニュースに積極的に触れ、祈りによって支えることは今の時代でも大切な兄弟愛の実践です。
また、投獄はされなくても、日本の社会では、信仰上の理由で苦しい立場に置かれているクリスチャンたちは案外大勢います。リスナーからのお便りで、しばしばそうした状況に苦しむ人たちのことを知ります。そうした苦しみを分かち合い、励ましあい、祈りあうことも兄弟愛の実践であると思います。
続く4節以下には結婚についての教えと金銭に執着することへの戒めが記されています。どちらも兄弟愛の勧めとは直接関係なさそうに思われるかもしれません。しかし、どちらも十戒の第七戒と第十戒に関わっていますので、隣人愛や兄弟愛と無関係ではありません。
結婚については、「すべての人に尊ばれるべきである」という勧めの言葉に続いて、その婚姻関係を汚す様々な行為が戒められています。ここでいう結婚とは、キリスト教の結婚観に立った婚姻関係のことが前提であることは言うまでもありません。それぞれの時代やそれぞれの民族で重んじられてきた結婚観を尊重するようにという意味ではありません。ただ、結婚観ほど時代の風に影響されやすいものはないようにも思います。そして、そのために傷つく人たちは後を絶ちません。
ここですべてを論じることはできませんが、頻繁に繰り返される離婚と再婚の問題、同性同士の結婚の問題など、現代的な課題は尽きません。兄弟愛の実践という観点から、この問題をどう扱うのかは現代の教会には避けて通ることができない問題であるように思います。
金銭への執着と貪欲の問題も、古くからある問題ですが、現代社会を蝕んでいる問題でもあるように思います。信仰者も知らず知らずのうちに、そうした社会の流れに飲まれていってしまい、気がついた時には隣人愛からも兄弟愛から遠ざかってしまいそうです。貪欲を生み出す社会の構造を変えることは簡単ではありません。また社会の構造を変えても、貪欲な人間の心までも変えることはできません。ただ、著者が記しているように「主はわたしの助け手」という神に対する信頼が、貪欲に傾くわたしたちの心を隣人愛・兄弟愛へと引き戻してくれるのです。