聖書を開こう 2022年7月14日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イサク、ヤコブ、ヨセフの信仰(ヘブライ11:20-22)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今、旧約聖書に登場する信仰者たちを「ヘブライ人への手紙」から学んでいます。きょう取り上げようとしているイサク、ヤコブ、ヨセフの3人はアブラハムに次ぐ三代にわたる信仰者たちです。その生涯は旧約聖書の「創世記」に記されています。

 この手紙の著者が記しているとおり、この3人は、皆、信仰に生きた人たちでした。しかし、「創世記」を読めば分かる通り、これらの人たちは欠けや弱さのない人たちではありませんでした。そういう意味ではわたしたちと同じ人間です。弱さや欠点を抱えながら、神と出会い、信仰を貫き通した人たちです。そうであればこそ、学ぶべき点が多いといえるのです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章20節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

 きょう、最初に取り上げられるのは、アブラハムの息子イサクの信仰です。イサクはアブラハムに与えられた約束と祝福を受け継ぐ独り子として、神からの特別な約束のもとに生まれた人でした。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に生まれた子です。アブラハムが神に召されてハランの地を出てから25年経った時に生まれた息子です。その生涯は180年でした。

 「ヘブライ人への手紙」が取り上げているのは、そのイサクの生涯の一番最後の場面です。イサクの信仰について取り上げるとき、他にふさわしい場面がないのか、というと必ずしもそうではありません。父アブラハムによってまさに自分が献げられようと祭壇にのせられたときも、父の言葉、「きっと神が備えてくださる」という言葉を信じて疑いませんでした。

 イサクはリベカと結婚して、60歳の時に双子の息子、エサウとヤコブを与えられます。この2人について、神は兄のエサウが弟のヤコブに仕える者となるという不思議な未来を告げます。

 生まれてきた子供は双子とはいえ、それぞれ個性を持った子供たちでした。それがまた両親にはいとおしく感じられ、また、一方よりも他方を愛する偏愛の原因ともなりました。この点はイサクとリベカ夫婦の欠点であった言えるでしょう。イサクは人間的な好みから兄のエサウを愛し、リベカは弟のヤコブを愛するようになります。やがてそれはアブラハムに与えられた祝福と約束の継承の問題へと発展します。

 母親のリベカは計略を用いて、年老いて目がかすんで見えないイサクに弟ヤコブの方を祝福させようとしました。見事にだまされたイサクは、弟のヤコブを兄エサウと思い込んで祝福してしまいます。こうして、ヤコブが生まれる前に神から告げられたことが実現します。

 「ヘブライ人への手紙」がイサクの信仰として取り上げているのは、まさにこの場面の出来事です。欺かれたイサクにとっては、この祝福の継承は人間的には不本意なことでした。しかし、イサクはこのことを受け止めます。そこにこの手紙の著者はイサクの信仰を見ています。だまされたのですから、もっと大げさに騒ぎ立ててもよさそうですが、イサクはただひたすらその結果を受け止めます。自分の思いではなく、神の不思議な導きに信仰によって身をゆだねたのです。

 次にこの手紙の著者が取り上げるのは、アブラハム、イサクへと流れる祝福を受け継いだヤコブの信仰です。「創世記」によれば兄エサウに比べて、ヤコブは「穏やかな人」であったと言われています(創世記25:27)。しかし、兄エサウの評価では、二度も自分の足を引っ張って欺く弟です(創世記27:36)。

 父のイサクから祝福を受け継ぐまでは、ヤコブの人生は順風満帆のように思えました。しかし、人生の後半は必ずしもそうではありませんでした。多くの苦労を経験し砕かれた人でした。晩年になってエジプトの王ファラオに謁見したとき、ヤコブは自分の人生を振り返ってこう述べています。

 「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」(創世記47:9)

 確かに苦しみ多い人生でしたが、この苦しみを神から見捨てられた人生とは考えていませんでした。ヤコブはその苦しみの中で神と出会い続けた人でした。

 数え上がればいくらでもあるヤコブの信仰のエピソードですが、この手紙の著者は、またしても、祝福の継承の場面に注目します。しかも、12人の息子たちを祝福する場面ではなく(創世記49:1-28)、ヨセフとその2人の息子たちを祝福する場面に着目しています(48:1-22)。このヨセフとその息子たちを祝福する場面で、ヤコブは神を「アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神」と呼びかけ、この神からの祝福を願い、ヤコブによって受け継がれた約束が、彼らによって受け継がれることを願っています。ここに「ヘブライ人への手紙」の著者はヤコブの信仰を見ています。ヤコブは信仰によってその約束を受取り、守り、次の世代に引き継ごうとしているのです。

 きょう三番目に取り上げられるのはヨセフの信仰です。アブラハムから見てひ孫に当たります。このヨセフの人生も波乱に満ちた人生でした、父のヤコブから溺愛され、しかし、兄たちからはねたまれ、エジプトに売り飛ばされていってしまいます。そのエジプトでも紆余曲折の人生を歩んで、ついにはファラオに次ぐ大臣の座に上り詰めます。

 しかし、この手紙の著者が着目するのは、そんなヨセフのサクセスストーリーではありません。死が近づいたときに遺言した、自分の遺骨についての願いです。ヨセフはエジプトに移住してきた父ヤコブと自分の兄弟たちと共に、三世代の子孫を目にし、死を迎えるまでそこにとどまりました。

 しかし、ヨセフは神の約束を決して忘れたわけではありません。自分の遺骨を約束の地であるカナンに持ち帰って欲しいと願います(創世記50:25)。その願いを頼まれた人たちの世代にそれが実現するとはわかりません。神が自分の曾祖父アブラハムに語った約束の言葉をヨセフが聞き及んでいたとしたら、それは400年もあとに実現することです(創世記15:13)。しかし、ヨセフは、神がアブラハムに語り、イサク、ヤコブへと受け継がれてきた神の祝福と約束を信じていました。そんな先のことを確信して、自分の骨を約束の地に持ち帰ってほしいと願ったことの中に、見えないものを確信させる信仰を、この手紙の著者は見ているのです。

 ヨセフの生涯は110年でした。17歳でエジプトに売られて来て以来、人生のほとんどをそこで過ごしたことになります。しかし、ヨセフにとってエジプトは決して安住の地ではありませんでした。寄留の地に過ぎなかったのです。ヨセフが望み見ていたのは、神の約束の地だったのです。未だ目に見えないその実現は、信仰だけが見させてくれる世界なのです。

Copyright (C) 2022 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.