聖書を開こう 2022年5月12日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  唯一の完全な献げもの(ヘブライ10:11-18)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「立つ」と「座る」という言葉は対照的な言葉です。特に「立つ」という動作の後に「座った」という言葉が続くときには、ある一定の行動が終わったことを示します。例えば、「彼は立って話し始めた。それからおもむろに座った」という文章は、話が終わったのか終わっていないのか、明確ではありません。しかし「座った」という動作の中に、「話しが終わった」というイメージが自然と付随しています。「座ってからも話続けていた」というイメージを抱くことは少ないと思います。

 きょう取り上げようとしている個所にも「立つ」という動作と「座る」という動作が対照的に描かれています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章11節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
 「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

 きょう取り上げた個所も引き続き古い契約の下で行われた祭儀の不完全性とキリストが献げた犠牲の完全性とが対比されています。

 前回の個所でこの手紙の著者がイメージしていたのは「年ごとに絶えず献げられる」贖罪日のいけにえのことでした。きょうの個所では、古い契約の下で毎日行われる祭司たちの務めが取り上げられます。祭司たちは毎日の礼拝の務めの中でもいけにえを献げていました。年ごとに献げられる贖いの犠牲よりも早いサイクルでいけにえの供え物は繰り返し献げられます。

 祭司たちは組に分けられ、くじに当たった組がその日の務めを果たしますが、次の日には別の組の祭司たちがまたその務めを同じように果たします。それが延々と繰り返し続けられてきました。終わりがない務めです。その繰り返されているという事実こそ、この務めが罪の償いのためには不完全であることを物語っていると、この手紙の著者は考えています。

 ところで、その務めを果たす祭司たちは、立ってその務めに当たりました。実際、幕屋には祭壇や備えのパンを置くための机はありましたが、祭司たちが座る椅子はありませんでした。立ったまま務めを続け、次の組の祭司たちも同じように立ったままで務めを続けました。

 それとは対照的に、唯一の犠牲であるご自身の体を献げて、父なる神の右に着座しているキリストの姿が描かれます。立ったまま仕事を繰り返す古い契約の下にいた祭司たちとは違って、キリストはその務めを果たして座られたのです。

 務めを終えて座られたのですから、当然二度目、三度目の犠牲は必要としません。そのことは必然的に、キリストが献げたご自身の体が、必要充分な完全な献げものであったことを証ししています。こうしてキリストは古い時代の契約に終止符を打たれたのです。

 キリストが座られたその場所は、父なる神の右の座でした。祭司として務めを完全に成し遂げたキリストは、敵である罪を征服した王としてその座につかれます。

 13節の「敵どもが御自分の足台となってしまうまで」という表現は、キリストの支配が不完全なものであることを示す表現ではありません。ここからはもはや敵の反撃の余地は全く失われているのです。形勢が逆転して、再び罪の支配が力を盛り返すことはありません。そういう意味でキリストは再び出陣する必要のない王として、打撃を受けた敵が滅びるのを待つばかりなのです。

 そうであればこそ、手紙の著者は続く14節で確信をもってこう記します。

 「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」

 しかし、現実の感覚からすると、このように救われたはずのクリスチャンであっても、罪を繰り返す弱さがあるのではないか、という疑問があるかもしれません。また、そのことのために苦しい思いをしている者がいることも確かです。しかし、それは罪の燃えかすのようなものにすぎません。再び燃え上ってわたしたちを罪の奴隷としてしまうほどの力はないのです。

 もちろん、罪を悔い改める必要はないとは言いません。罪を悔い改めることはいつでも必要です。また、いくら燃えかすに過ぎないからと言っても、罪の誘惑に陥らないように絶えず注意を払うことも大切です。しかし、そのために繰り返される新しい犠牲をもはや必要とはしません。わたしたちがそのために付け加えることなど何ひとつないのです。キリストの犠牲は完全だからです。ここに立ち帰ることによってだけ、わたしたちの良心は平安をいただくことができます。安心して神の御前に近づくことができるのです。

 現実の自分の姿を見るときに、ついついキリストの救いの御業の完全さを無意識のうちに疑ったり軽んじてしまうわたしたちです。しかし、この手紙の著者は聖書が語る神の約束の言葉をもって弱いわたしたちを励まします。

 すでにこの手紙の8章で言及された言葉ですが、エレミヤ書から引用してこう述べます。

 「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」

 神の約束の言葉は、わたしたちの現実よりもはるかに確かです。自分の現実から神の約束を疑ったり、自分自身に失望してはなりません。そうではなく、必ずそうしてくださると約束してくださっている神の言葉にこそ、わたしたちの信仰と信頼の確かな土台があるのです。

 神はエレミヤの口を通して約束してくださっています。新しい契約の下では、わたしたち自身の心の中に神の律法が書きつけられ、もはや神はわたしたちの罪と不法とを思い出されないと。そしてこの新しい契約の時代は、イエス・キリストを通してすでに到来しているのです。

 ここにこそわたしたちの望みがあります。この救いを手に入れているからこそ、罪に対する罰の恐怖心からではなく、感謝と喜びをもって神の御前に大胆に生きる道が開かれているのです。

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