聖書を開こう 2022年4月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストの完全ないけにえ(ヘブライ9:23-28)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「耳にタコができる」という表現があります。同じことを何ども聞かされてうんざりしてしまうときに使います。つまらない自慢話や、大して役にも立たない話を繰り返されるとうんざりしてしまう気持ちはわかります。

 しかし、大切なことほど繰り返し教えられるというのも真実です。それを耳にタコができたといって、耳を塞いでしまったなら、その大切なことは身に着かないまま終わってしまいます。良い教師ほど繰り返しが多いのは、生徒の記憶を確かなものとし、教えが身に着くようにするためにほかなりません。

 そういう意味で、この「ヘブライ人への手紙」は繰り返しが多い手紙です。きょう取り上げようとしている個所にも、前に出てきたテーマが繰り返されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 9章23節〜28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 キリストが人間が建てたのではない天上の幕屋で仕える大祭司であるというテーマは8章2節ですでに学びました。このテーマは9章でさらに展開されて、9章11節では、キリストが人の手で造られたのではない完全な幕屋を通って、ただ一度ご自身を献げることによって永遠の贖いを成し遂げられたことを学びました。

 きょうの個所でもこの同じテーマは繰り返されています。天上にあるもののコピーにすぎない地上の聖所と、その本体である天上の聖所とは、決定的に違います。

 前回学んだ個所では、新しい契約の仲介者としてのキリストについて学びました。この仲介者であるキリストはご自身の死によって召し出された者たちの罪の贖いを成し遂げ、同時にその死によって、受け継ぐべき永遠の財産の相続を可能としました。

 そこから発展して、この手紙の著者は古い契約にも「死」が伴っていたことを指摘し、古い契約のもとでも、動物の犠牲の血ではあるものの、「血」が流されることは、契約の成立にとって不可欠であると著者は語りました。この動物の犠牲の血によって、地上の聖所とそれに属するものは清められたのですが、きょう取り上げた個所の冒頭部分は、その「清め」の問題につながってきます。

 古い時代の契約のもとでは、天上にあるもののコピーにすぎない聖所が動物の犠牲の血によって清められたのですが、天上の聖所は、動物の犠牲の血によって清めることはできません。手紙の著者は「天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」と述べています(ヘブライ9:22)。

 しかし、そもそも天上の聖所は神ご自身の聖なる住まいであるのですから、それを清める必要があるのだろうかと、素朴な疑問が浮かぶかもしれません。確かに神ご自身も、その神のいらっしゃるところも、すでに「聖」なのですから、地上の聖所のように清めを必要としているわけではありません。しかし、天上の聖所に招かれているわたしたち人間は、そうではありません。罪のために神の御前に近づくことさえできないほどに、罪の汚れに染まっています。

 確かに古い契約のもとでは、地上の聖所で行われる礼拝のために、動物の犠牲の血によって罪からの清めが象徴的に行われていました。それは繰り返される必要が示しているとおり完全なものではありません。外面的、象徴的に罪からの清めを現しているにすぎず、心の内面までも人を罪から清めるものではありません。

 キリストの血だけが、わたしたちの罪を贖い、罪からわたしたちを清めることができるのです。

 この手紙の著者は、キリストが十字架で流された血が、完全な犠牲であることを強調するために、「ただ一度」という言葉を繰り返し用いています。それは、地上の幕屋での儀式が「年ごとに」「度々」繰り返されなければならないことと対照的です。

 ところで、この手紙の受取人たちにとって、エルサレムの神殿で行われていた祭儀は、どれくらい記憶として残っていたのだろうかと思います。というのはこの手紙が書かれたときには、エルサレムの神殿はローマ軍によってすでに破壊されていました。受取人の中には神殿での礼拝を全く経験したことがないユダヤ人クリスチャンもいたかもしれません。しかし、第一世代のクリスチャンたちほどではないにしても、実際エルサレムの神殿で行われていた祭儀について、知っている世代がまだいた時代だと思われます。そういうバックグランドを持つユダヤ人クリスチャンにとっては、地上の祭司とイエス・キリストとの対比は、身をもって実感できたのではないかと思われます。

 しかし、この手紙が書かれたときには、実際もうエルサレムの神殿はなくなっているのですから、名実ともに古い契約の時代が終わったことは、第一世代のクリスチャン以上に感じ取ることができたのではないかと思われます。しかも、今までこの手紙の中で論じられてきた大祭司であり新しい契約の仲介者であるイエス・キリストをいただく者たちにとっては、神殿の崩壊という出来事は、よりどころを失う事件ではなく、かえってキリストと共にあずかる礼拝の素晴らしさを味わう機会となったに違いありません。大祭司キリストが、ご自身の血をもって民を贖い、清めて下さり、神の御前にいつもいてくださるのですから、これほど平安なことはありません。

 それに対して地上の大祭司は贖罪の日の務めを終えると、再び至聖所から出てきました。いつまでも神のみもとにとどまるわけではありません。もちろん、贖罪の務めを終えて、至聖所から出てくる祭司の姿を見ることは、神との親しい交わりの回復を確信させる場面であったことはことは否めません。しかし、その贖いは完全なものではないので、毎年繰り返されなければなりませんでした。

 もっとも、大祭司キリストも天の聖所から出てきてくださる時がきます。それは贖いの業を繰り返すためではありません。キリストによって始められた救いの業を完成させるために再び地上に来てくださいます。その日の到来をわたしたちは心から待ち望んでいるのです。

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