聖書を開こう 2022年4月14日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  新しい契約の仲介者(ヘブライ9:15-22)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 前回もお話ししましたが、旧約の「約」、新約の「約」は契約の「約」であると言いました。英語では旧約聖書のことを「Old Testament」、新約聖書のことを「New Testament」と言います。Testamentという単語を辞書で引くと、「遺言」という意味が一番最初に出てきます。遺言というのは、ある意味で特殊な契約ということができると思います。というのは、普通の契約は当事者同士の合意の上に成り立ちますが、遺言というのは、一方的な性格を持っているからです。当事者の一方が当事者の他方に対して財産を相続させる旨、遺言すれば、それでその契約は成り立つからです。もちろん、その契約が執行されるのは、遺言した当事者が亡くなる時です。

 きょう取り上る個所では、「遺言」という言葉が出てきます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 9章15節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

 きょうの個所は、キリストが新しい契約の仲介者である、という言葉から始まります。キリストが新しい契約の仲介者であることは、この手紙のこの個所で初めて明かされることではありません。イエス・キリストについてすでに8章6節で次のように述べられています。

 「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」

 8章6節では、キリストが新しい契約の仲介者であることをさらっと述べましたが、きょう取り上げた個所では、どういう意味でキリストが新しい契約の仲介者であるのかが、詳しく論じられます。15節後半の日本語訳は、二つのことを述べているので、一読しただけでは意味が捉えにくいかもしれません。

 この15節では、まず、罪の贖いのためのキリストの死について述べられています。本来、罪は罪を犯した人自身がその代償を支払うべきものです。古い契約のもとでは、動物の犠牲が、本人に代わる代償として献げられていました。それらの動物犠牲はすでにこの手紙の中で論じてきたように、不十分なものでしかありませんでした。犠牲が繰り返されるということが、その不十分さを物語っています。それに対して、キリストは繰り返されることのない完全な犠牲としてご自身を十字架の上で一度だけ献げてくださいました。キリストが新しい契約の仲介者であるということは、このキリストの尊い代償的なただ一度の死の上に成り立っている仲介者であるということです。

 イエス・キリストご自身、マルコによる福音書の10章45節でご自分の使命と死の意味について次のように語っておられるとおりです。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)

 第二に、新しい契約の仲介者であるイエス・キリストは、召された者たちに永遠の財産を継がせるための仲介者であるということです。そして、それは先に述べたキリストの死を通してのみ実現されることでした。

 この手紙の1章2節で神の御子イエス・キリストは「万物の相続者」と呼ばれていました。その御子イエス・キリストは召し出された者たちを兄弟と呼ぶことを恥じとすることなく、共同の相続人として、約束された永遠の財産を受け継がせようとしてくださったのです。

 ここで、この手紙の著者は「遺言」という概念を持ち出して、キリストの死の意味を別の観点から解き明かします。「遺言」という言葉が出てきたのは、言うまでもなく、その直前で言われている永遠の財産の相続ということと無関係ではありません。

 ただここで、ギリシア語で書かれたこの手紙を直接読むのと、日本語訳でこの手紙を読むのとでは、受ける印象がまるで違います。日本語訳の聖書では、新しい概念のように「遺言」という言葉が登場する印象を受けます。しかし、ギリシア語聖書では今まで論じてきた「契約」という言葉も「遺言」という言葉も同じ単語が使われています。

 ここで使われている言葉は、ギリシア語で「ディアテーケー」と言いますが、さかのぼると、ヘブライ語の契約を現す単語「ベリート」の訳語として、ギリシア語訳の旧約聖書の中で使われています。ギリシア語には「契約」を意味する単語は他にもありますが、「ディアテーケー」を訳語として採用したのは、ヘブライ語の「ベリート」が持つニュアンスをもっともよく伝えると思われたからでしょう。神と人との間で結ばれる契約は、双方が対等の関係にある契約ではありません。神からの一方的な契約で、神からの一方的な恵みによって結ばれる契約です。

 遺言はとりわけ一方的な性格が強い契約です。遺言者は遺言を一方的に残し、遺言者の死によって財産の譲渡が一方的になされます。

 キリストの死は、罪を贖う代償として支払われる死であると同時に、遺言を成立させる死でもあったのです。さらに言えば、キリストは一度死んで復活されたお方ですから、その死によって遺言を成立させると同時に、復活されたお方として遺言を執行するお方でもあるのです。

 では、古い契約には遺言の重要な要素である「死」はなかったのでしょうか。そうではありません。動物犠牲の血が注がれることによって、そのことが示されていました。

 出エジプト記24章に記されているとおり、モーセは契約の締結に際して犠牲の動物の血を取って言いました。

 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と(ヘブライ9:20。出エジプト24:8参照)。

 新しい契約が結ばれるときには、イエス・キリストご自身が流される血をぶどう酒になぞらえ、こう言われています。

 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と(マルコ14:24)。

 こうして、古い時代の契約のもとでは不完全であったものが、新しい契約のもとでは、契約の仲介者イエス・キリストによって完全なものとなり、約束された永遠の財産を確実に受け継ぐものとされているのです。

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