聖書を開こう 2022年3月24日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  新しい契約(ヘブライ8:7-13)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会が正典として持っている聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。「旧約聖書」は39巻の書物から成り立ち、「新約聖書」は27巻の書物から成り立っています。合わせて66巻をキリスト教会では『聖書』と呼んでいます。

 ところで「旧約」とか「新約」と呼ばれるのはなぜでしょう。読んで字の通り、一方は古いもの、他方は新しいものというのはすぐにわかると思います。けれども一体何に対して新しいとか古いとか言っているのでしょうか。また、「旧約」の「約」、「新約」の「約」とは何を意味しているのでしょう。

 きょう、これから取り上げようとしている個所にはその説明が記されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 8章7節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった』と、主は言われる。『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。

 今お読みした個所には、「契約」という言葉が何度も繰り返し出てきました。もちろん、この手紙の中で「契約」という言葉が出てくるのは、ここが初めてのことではありません。7章22節には「優れた契約」という言葉が出てきました。「優れた契約」という言葉の背後には、「劣っている契約」とか「欠けがある契約」の存在が暗示されているように思われます。また前回取り上げた8章6節には「更にまさった契約」という言葉が出てきましたので、比較の対象となる契約がすでに存在していることがわかります。

 きょう取り上げた個所には「最初の契約」に対して、「第二の契約」「新しい契約」という言葉が使われています。そして、「第二の契約」が「新しいもの」と呼ばれることによって、「最初の契約は古びてしまった」と記されています。

 実は冒頭で取り上げた「旧約」と「新約」の区別は、このことと関係しています。「旧約」の「約」、「新約」の「約」とはここに出てくるように「契約」のことを指しています。

 さて、今日取り上げた個所は、新しい契約がなぜ必要なのか、新しい契約の必要性について語ります。それは、最初の契約が欠けたところがあったからです。つまり完全なものではなかったということです。もっとも完全なものではなかったと言ってしまうと語弊があるかもしれません。最初の契約は完全ではありませんでしたが、無用の長物ではありませんでした。最初の契約には最初の契約の役割があり、新しい契約との間にはつながりがあるからです。ただ、この手紙の著者の強調点は、最初の契約は、「新しい」「優れた」「更にまさった」契約の登場によって古びてしまったということです。

 この手紙の著者は、最初の契約が不完全であったと単刀直入には語らずに、あえて遠回しにこう述べています。

 「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。」

 実際のところ、第二の契約が登場することで、最初の契約の不完全さが明らかになったというのがこの手紙の著者の実感であるように思います。キリストが登場するまでは、それよりも優った契約について実感することなどできなかったはずです。

 ただ、神の目から見れば、第二の契約の登場は織り込み済みのことでした。旧約時代、すでに預言者の口を通して新しい契約が与えられることが告げられていたからです。では、モーセを通してシナイ山で与えられた最初の契約はどういう意味で不完全だったのでしょうか。

 契約が成立するためには、三つの事柄が必要です。それは契約の当事者と契約の目的とその目的を達成するための条件です。実際、古い契約にも、この三つがありました。契約の当事者は主である神とイスラエルの民でした。契約の目的は、イスラエルの民が神の民となり、主である神がイスラエルの神となること。そして、この目的が達成される条件は律法の定めを彼らが忠実に守ることでした。そういう意味では、古い契約は完全な契約でした。しかし、問題は当事者の一方である人間の側にありました。彼らは律法の言葉に忠実に従いとおすことはできませんでした。

 シナイ山で契約が結ばれたとき、イスラエルの民は声をそろえて言いました。

 「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」(出エジプト24:7)

 しかし、実際にはモーセがシナイ山で十戒を授けられている間に、彼らは早くも金の子牛の偶像を作って罪を犯してしまいます。そればかりではありません。ヘブライ人への手紙の3章7節以下で論じていたように、彼らは荒れ野の旅の40年間、心をかたくなにして主に従いませんでした。

 その後たどった歴史も、その繰り返しでした。すっかり忘れ去られていた律法の書が発見され、徹底した宗教改革が行われたヨシア王の時代でさえ、預言者エレミヤを通して、その民の行いが口先の表面でしかないことが批判されました。エレミヤに望んだ主の言葉はこうでした。

 「主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない(エレミヤ7:2-4)。

 エレミヤが新しい契約についての預言をしたのも、こうした民の側での不忠実が背景にあります。イスラエルの民が繰り返し契約の条件を破ってきたために、古い契約はその目的を達成することができなかったのです。

 神がエレミヤの口を通して語られた来るべき日の新しい契約は、一人一人に律法が書き付けられた新しい心が与えられ、一人一人に神を知る知識が確実に増し加えられ、彼らの罪が一方的に確実に赦される、そのような確かな約束を伴うものでした。

 かつて人間の弱さのゆえに成就することができなかった契約を、新しい契約において、神は確実に成就する道を仲介者キリストを通して備えてくださっているのです。

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