聖書を開こう 2022年3月3日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  卓越した新しい祭司制度(ヘブライ7:11-19)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「ヘブライ人への手紙」をよりよく理解するためには、この手紙の著者が持っている論理のパターンを理解する必要があります。それは古い時代の制度が、神によってもたらされた新しい時代の制度にとってかわられた、という論理のパターンです。前者は不完全な制度であり、後者は完全な制度あること、前者は地上的で一時的な制度にすぎないのに対して、後者は天上の世界に属していて永遠であるというパターンが展開されます。7章から10章にかけて記されている事柄には、そうした考えが根底にあります。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 7章11節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、…というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから…いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。…律法が何一つ完全なものにしなかったからです…しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。

 「ヘブライ人への手紙」の著者にとって大きな課題の一つは、イエスというユダ族出身の人物が、なぜ祭司職をもつメシアなのかということを、ユダヤ人たちに説得力をもって論証することでした。

 その当時のユダヤ人たちが抱いていたメシア像は、必ずしも一つではありませんでした。ある人々は王のようなメシアを期待し、ある人々は祭司のようなメシアを期待していました。その他にもメシアを語る時のイメージは多種多様なものがありました。ですから、イエスはダビデの家系から生まれた王としてのメシアだ、とだけ主張したとしても、ある人々にはそれで十分であったかもしれません。

 しかし、イエスというお方を紹介するときに、王という側面だけを強調すれば、イエスというお方のメシアとしての働きの肝心の部分を切り捨てて紹介してしまうことになってしまいます。

 王であり祭司でもあるメシア、そういうお方としてイエス・キリストを紹介しなければ、神がお遣わしになったメシアを正しく伝えることはできません。

 もちろん、相手が旧約聖書の知識がない人であれば、メシアとはそういうものだと言ってしまえば、それで済むかもしれません。しかし、相手がユダヤ人であれば、そうはいきません。王であり祭司であるということ自体、モーセの律法に反することだと思われ、そんなメシアを神が遣わすはずはないと反論されてしまいます。

 たとえば、サウル王は、サムエルの到着が遅いのを理由に、自分で祭司の勤めを果してしまったことがありました。それに対して、神の怒りが下ったことはサムエル記に記されているとおりです(サムエル上13:8-14)。

 同様にウジヤ王は、祭司にしか許されていないはずなのに、主の神殿に入って香を焚こうとして、主の怒りを買って重い病を得ます(歴代誌下26:16-21)

 こうしたことを熟知しているユダヤ人たちに、ダビデの家系に属するイエスが、なぜ祭司的なメシアでもありうるのか、そのことを丁寧に論じなければなりませんでした。

 確かに後に定められた律法にはレビの系統に属する祭司制度のことが規定されていました。そのような祭司的な職務を帯びたメシアが現れるとすれば、律法に矛盾するようなことがあってはなりません。そこでこの手紙の著者が着目したのが、モーセの律法に先立って登場した永遠の祭司メルキゼデクという人物でした。しかも聖書は、メシアについて「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」という言葉を記しています。つまり、聖書自体がアロンの家系に属さない祭司の存在を律法が与えられる以前にも、そして律法が与えられた後にも語っているのです。

 では、なぜそのようなことがあるのか。この手紙の著者は、その理由を、レビの家系に属する祭司制度が完全なものではなかったからだと結論付けます。もちろん、かつての制度が無意味なものであったという意味ではありません。律法に従って、その制度は一定の役割を果たしました。しかし、それは地上的であり、一時的であり、完全なキリストの祭司制度に対しては、影のような存在に過ぎなかったのです。そういう意味で不完全なものでした。

 まさにその理由で、かつての律法の制度とは異なる、メルキゼデクと同じような祭司が立てられたというのです。イエス・キリストがレビ族に属さず、ダビデの血筋から生まれたことが、祭司としてのキリストがかつての祭司制度のような不完全さを持たないものであることを暗示しているのです。

 しかし、制度が変わったのであれば、それを規定する律法も変更されるはずだ、という反論に、この手紙の著者はどう答えるのでしょうか。

 その疑問に対して、7章16節であっさりとこう言ってのけます。

 「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。」

 地上の祭司が肉の律法によって立てられたために不完全であったのですから、新しい制度の祭司が古い肉の律法によらないことは言うまでもないことです。しかし、「律法の変更」という言葉をあえて使わずに、「朽ちることのない命の力によって立てられた」と述べます。

 続く18節ではさらに言葉を強めて、「以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました」と述べます。律法が変更されたという説明では、このような大きな変化を説明しきれないということでしょう。ですから、「「朽ちることのない命の力によって」とか、「以前の掟が、廃止された」という言葉を選んだに違いありません。

 「廃止された」という言葉は、確かにラディカルな響きをもった言葉です。この言葉が独り歩きし始めると、ユダヤ人たちにはかえって反発を招きかねません。

 イエス・キリストご自身、マタイによる福音書の中で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃっています(マタイ5:17)。「廃止」という言葉が持つネガティブな側面だけが強調されることを嫌って、「完成」というポジティブな言葉を選んで使っています。

 確かにこの手紙の著者は「廃止」という強い言葉を使っていますが、しかし、言いたいことは、古い制度が不完全であったのに対して、新しい祭司であるイエス・キリストが完全な祭司であるということです。ですから、19節では事柄が持つポジティブな側面を強調して、こう記しています。

 「他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。」

 新しい永遠の祭司の登場によって、神に完全に近づく希望がわたしたちに与えられたのです。完全なものが登場したときに、不完全なものが用を終えて消えていくのは当然のことなのです。

Copyright (C) 2022 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.