聖書を開こう 2022年2月17日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  メルキゼデクという人物(ヘブライ7:1-3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書の中には、たった一、二度しか名前が記されない人物は大勢います。常識的に考えて、一、二度しか名前が出てこない人物は、何度も名前が記される人物と比べてそれほど重要な人物とは思われません。

 きょう取り上げようとしているメルキゼデクという人物は、旧約聖書の中にわずか二度しか名前が登場しない人物です。にもかかわらず今学んでいる「ヘブライ人への手紙」の中には、メルキゼデクという名前が八回も登場します。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 7章1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの10分の1を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。

 番組の冒頭でも触れましたが、メルキゼデクの名前が旧約聖書に登場するのは、わずか二回だけです。その一つが創世記14章17節から20節に記される出来事の中に登場します。

 「ヘブライ人への手紙」の著者が、ここでメルキゼデクについて論じるのは、決して唐突なことではありません。すでにこの手紙の著者は、ここに至るまで何度かその名前を記してきました(ヘブライ5:6、5:10)。しかも7章に入る直前で、「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」と記しています。

 当然、どういう意味でイエス・キリストはメルキゼデクと同じような大祭司なのか、説明が必要です。その説明が7章全体で展開されます。

 きょう取り上げた個所で扱われているのは、「創世記」14章に記された場面です。そこには東から侵入してきた4人の王たちが率いる同盟軍と、ヨルダンの低地に住むソドムやゴモラの5人の王たちの同盟軍との戦いの記事が記されています。この戦いに敗れたヨルダンの低地にはアブラハムの甥のロトたち家族が住んでいましたが、捕虜として連れ去られてしまいます。その知らせを聞いたアブラハムは同盟を結んでいた人たちと立ち上がって、甥のロトたちを救出し、奪われた財産を取り戻します。その時、勝利の帰還を果たすアブラハムを出迎えたのが、メルキゼデクでした。

 「ヘブライ人への手紙」の著者が、このメルキゼデクの記事に関して着目しているポイントがいくつかあります。創世記が記している実際の記事と読み比べてみると、この手紙の著者が何に着目し、何にそれほど関心を払わなかったかがわかります。

 例えば、勝利したアブラハムを迎えるとき、メルキゼデクはパンとぶどう酒をもってアブラハムを迎えます。

 パンとぶどう酒といえば、真っ先にキリストが制定した聖餐式を思い浮かべるかもしれません。しかし、その点について、この手紙の著者は全く触れようとしません。

 この手紙の著者がメルキゼデクに関する記事から特に取り上げている点は、全部で五つあります。第一に、メルキゼデクは王であり祭司であったということ。第二に、メルキゼデクがアブラハムを祝福したこと。第三にアブラハムから10分の1を受け取ったこと。この第二と第三のことに関しては、4節以下でさらに詳しく説明されますので、次回の学びで取り上げることにします。

 第四には、その名前の意味するところ。そして第五には、系図もなく生涯の終わりについても記されていないという点に着目しています。

 これらの事柄に加えて、7章全体では、後に制定されたアロン系の大祭司に対するメルキゼデクの優位性が論じられ、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたキリストの大祭司論が展開されます。

 さて、メルキゼデクの名前の由来について、この手紙の著者は二つの点に注目します。メルキゼデクは創世記に初めて登場するとき、「サレムの王」として紹介されます。サレムはこの王が支配する地名を本来指すものですが、「ヘブライ人ヘの手紙」の著者は、これを単なる地名とは理解せず、地名が持っている本来の語源に立ち帰って、その意義を「平和の王」であると論じます。

 キリストが平和をもたらすお方であることは、新約聖書のいたるところで記されていますから、メルキゼデクが「平和の王」と呼ばれることに着目した理由はおのずと明らかです。やがて来るべき救い主、平和の君であるイエス・キリストのモデルとして、この手紙の著者はメルキゼデクを見ています。

 この平和の王である「メルキゼデク」という名前の持つ意味が「義の王」であると紹介されます。神の義を実現し、地上に正義をもたらす王です。もちろん、「平和の王」であることと「義の王」であることは、切り離すことができないことがらです。というのも神の義が実現しないところに、真の平和は実現しないからです。そういう意味で、この二つを実現するキリストとの類似点をサレムの王メルキゼデクの名前に見出すことができます。

 ところで「ヘブライ人ヘの手紙」の本筋からいえば、大祭司であるキリストを論じることが中心ですから、ここで「平和の王」「義の王」という「王」について論じることは蛇足のように思われるかもしれません。しかし、王であり大祭司であるという、後の大祭司にはありえないパターンが、すでにメルキゼデクの中に実現しているのです。その前例を見ることができるということは、とても意義深いことです。ダビデ王家から出たイエス・キリストがなにゆえに大祭司となりうるのか、という疑問に対して、メルキゼデクの前例が雄弁に答えているからです。

 メルキゼデクについての五番目の着目点としてあげられているのは、メルキゼデクには「父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもない」という点です。このことをもって、手紙の著者はメルキゼデクが永遠の大祭司であると大胆に論じます。

 これは、現代を生きる私たちからすれば、乱暴な議論のように思えるかもしれません。しかし、この手紙の著者が相手にしているのは、現代の私たちではなく、その時代に生きるユダヤ人たちであることを忘れてはなりません。彼らにとってこの議論は、これで十分説得力のあるものだったと考えるべきです。

 確かにエズラの時代もそうでしたが、祭司たるものがその出身を示す系図を提示できなければ、祭司となることはできないことは明白なことでした(エズラ2:61-63)。その常識からすれば、系図を示すことができないメルキゼデクは祭司職に就くことはできないはずです。しかし、聖書はこの人物を「いと高き神の祭司」と呼んではばかることがありません。その点にこの手紙の著者は着目しているのです。

 このようにして永遠の大祭司としてメルキゼデクを描くのは、イエス・キリストとの類似性を明らかにするためです。つまり、メルキゼデクはキリストの模型として旧約聖書の中に現れ、その模型が模している本体は、まさにキリストであるということなのです。言い換えれば、メルキゼデクに関する記述を受け入れているユダヤ人にとって、その本体であるキリストを拒む理由はありません。そして、メルキゼデクについてほとんど知らないわたしたちにとっても、大切なのは、イエス・キリストという永遠の大祭司をわたしたちがいただいているという点なのです。

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