聖書を開こう 2022年2月3日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の確かな約束〜アブラハムの場合(ヘブライ6:13-15)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 アブラハムという人物は、旧約聖書と新約聖書を通してしばしばその名前があげられる有名な人物です。旧約聖書の中では、ユダヤ民族の歴史を描くときに、その大本となる人物として描かれます。75歳の時に神からの召命を受け、ただ神の言葉に従って、故郷を離れて約束の地に旅立つアブラハムが、ユダヤ民族の原点です(創世記12:1-4)。

 ユダヤ人にとって「我々の父はアブラハムだ」(マタイ3:9)という言葉は、彼らの誇りであり、アイデンティティを示す言葉でした。

 また、アブラハムは「神の友」と呼ばれたただ一人の人間でした(歴代誌下20:7、イザヤ41:8、ヤコブ2:23)。

 新約聖書では、アブラハムは単にユダヤ民族の父ではなく、異邦人信仰者たちの父として、しばしばその信仰の模範が取り上げられます。例えば「ローマの信徒ヘの手紙」にはこう書かれています。

 「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」(ローマ4:11)。

 きょう取り上げようとしている個所にも、このアブラハムの信仰と忍耐とが模範として登場します。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 6章13節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。

 前回学んだ個所には、この手紙を受け取った人たちに対する筆者の願いがつづられていました。それは彼らが約束のものを受け継ぐことができるように、最後まで希望を持ち続けることでした。

 確かに旧約聖書の歴史を紐解くときに、神の約束をないがしろにしてしまった人たちの悪い模範を目にします。この「ヘブライ人への手紙」の中にも、そうした悪い例が取り上げられ、私たちヘの警告とされました。おそらくこの手紙を受け取った人たちが生きていた時代にも、旧約聖書の時代と同じように、神の約束に背き、教えを棄ててしまうということが、現実に起こりつつあったのかもしれません。そうであるとするなら、この手紙の中に記される警告の言葉は、決して他人事のように聞き流すことはできなかったはずです。

 しかし、この手紙の著者が願っていることは、背教への恐怖心におびえることではなく、希望を持ち続けて約束のものを手に入れることです。

 そのために、信仰者の模範的な例として、アブラハムのことを書き記します。

 冒頭でも述べた通り、アブラハムが神から召命を受けたのは75歳の時でした。その歳になって新しい地へ旅立つことが、どれほど困難を伴うことかは、容易に想像がつきます。普通なら、住み慣れた土地で余生を過ごし、そこで生涯を終えたいと願うでしょう。しかし、アブラハムは神の命令に従って旅立ちます。

 アブラハムにとって、信仰が試されたのは、見ず知らずの土地に旅立つということだけではありませんでした。

 「わたしはあなたを大いなる国民にする」(創世記12:2)という約束も「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記12:7)という約束も、子供のいなかったアブラハムには信じがたいことでした。結婚したばかりのアブラハムならまだしも、人生の終わりが近づきつつあるアブラハムが、この約束の言葉に生きるのは、人間的には不可能に近いものでした。

 約束を受けた時から何年も時が経ち、アブラハム自身でさえも、家を継ぐのは文字通り自分から生まれる子供ではなく、ダマスコのエリエゼルだとあきらめかけたときに、神から再び信仰のチャレンジを受けました。

 神はアブラハムにおっしゃいました。

 「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:4-5)。

 この言葉に、アブラハムは信仰をもって応えました。

 ちなみに冒頭で引用した「ローマの信徒ヘの手紙」でパウロが語っていたのは、このときのアブラハムの信仰でした。アブラハムが割礼を受ける前に示したこの信仰を神は彼の義と認められたのでした。そういう意味で、アブラハムは割礼ではなく信じる信仰こそが大切であることを示したのです。

 しかし、この神の約束を信じたアブラハムは順風満帆に信仰生活を送ったわけではありませんでした。このあと不妊の妻サラの提案を受けて、女奴隷のハガルを側室に迎え、イシュマエルをもうけます(創世記16章)。けれども人間の知恵に走るアブラハムに対して、神はアブラハムとその妻サラとの間に子供が生まれることを約束します。アブラハムが百歳、サラが90歳になろうとしていたときの出来事です(創世記17章)。そして、その約束の通り、アブラハムにはイサクが生まれます。ここまで至るのに、信仰の紆余曲折があったことは否めませんが、しかし、神の約束を信じ続けたアブラハムであったことは間違いありません。

 けれども、イサクの誕生をもってこの話が終わるわけではありませんでした。たった一人の息子であったイサクを犠牲として捧げるようにと、神はアブラハムに命じます(創世記22章)。このとき、アブラハムは神の約束とは一見矛盾するこの命令に信仰をもって従いました。

 きょうお読みした個所に登場する、神がご自身をかけて誓われた話は、この時の出来事です。信仰をもって神に従ったアブラハムに、神はご自身にかけて誓い、こうおっしゃいました。

 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」(創世記22:16-17)

 神はアブラハムの生涯を通して、何度となく約束の言葉を繰りかえしてきました。そして、ここに至って、その約束の確かさを保証するために、ご自身を指して誓いさえ立てられたのです。神は人間とは違って、神の言葉そのものが真実ですから、何かにかけて誓うことそのものが必要ではありません。しかし、あえて誓うとすれば、最高に真実であられるご自身にかけて誓うよりほかはありません。つまり、神はアブラハムに対する約束に最高の保証を提供されたのでした。

 それに対して、「アブラハムは根気よく待って、約束のものを得た」と「ヘブライ人への手紙」の作者は述べます。考えてもみれば、この時アブラハムにいたのは、一人息子だけで、とても天の星の数のようと言えるほども子孫がいませんでした。生涯を終える時点でも、せいぜい孫であったヤコブの誕生を知ったぐらいですから、海辺の砂の数のような子孫を得たとは言えない状態です。

 それにもかかわらず、「ヘブライ人への手紙」の著者は、アブラハムが経験しなかった結果を先取りして、「アブラハムは根気よく待って、約束のものを得た」とはばかることなく言います。実際、信仰者にとっては、信仰と忍耐が希望を生み、その希望はすでにかなえられたも同然だからです。いえ、神の約束が確実なので、私たちの希望も確実なのです。そうであるからこそ、その希望が実現することを忍耐し信じ続けることができるのです。

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