おはようございます。花見川キリスト教会の牧師、中山仰です。
旧約聖書に、「コヘレトの言葉」という文書があります。その3章に、「何事にも時があり…生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」(コヘレト3:1-2)など、いろいろな時についてあげられています。作者は、「人が労苦してみたところで何になろう。」(コヘレト3:9)と、時間も創造された神に委ねる生活をしなさいと諭します。
ある未開の地に入った、学術調査隊のお話しがあります。調査のために雇った原住民が、あるところでぱたっと止まって、全く動かなくなるという経験をします。なだめすかしても一歩も動かずに、賃上げ要求かと思って少し高く払うと約束しても、動きません。先を急ぐあまり心配していると、ある時突然、すっと起き上がって歩き出しました。
後で気心が知れたときに、あの時何で動かなかったのかと質問すると、早く歩きすぎて、魂が追い付いて来なかったからと説明され、賃上げは損したという笑い話になったそうです。これは、文明の進歩した人間にとって良い教訓ではないでしょうか。文明が発達すると、効率主義や能率主義で、できるだけ早く高く生産を上げることを目標に生きて行くからです。
人類にとっては、死ぬことは当たり前のことで、誰も避けることはできません。「死の時」は悲しいですが、神の時です。そう受け止めることのできる人にとって、死は、未来への入り口となるのではないでしょうか。