メッセージ: 神の安息にあずかる約束(ヘブライ4:1-5)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書には旧約聖書と新約聖書という区別があります。「旧約」とは古い契約、「新約」とは新しい契約をいます。そして、その境目はイエス・キリストの到来によって区別されています。
しばしば、旧約聖書は律法を中心とした救い、つまり行いによる救いを説くのに対して、新約聖書は信仰による救い、福音を中心とした救いを説いている、と誤解されがちです。旧約聖書も新約聖書も信仰による救い、福音による救いを説く点で一貫しています。また、新約聖書ではモーセの十戒に代表される律法のすべてが無効になったわけではありません。ただ、旧約聖書の神殿で行われていた祭儀が指し示していたものが、本体であるイエス・キリストによって成就したために、もはやその役割を終えたということです。「ヘブライ人ヘの手紙」は特にその点を丁寧に解き明かしている手紙です。しかし、目指している救いが違うものになったのではありません。そこには一貫した安息の約束が説かれています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で7日目のことについて、「神は7日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
きょうから「ヘブライ人への手紙」の学びも4章に入ります。章は変わりますが、内容は3章から続いています。3章では特に詩編の95編から引用しながら、イスラエルの民が心をかたくなにしたために安息の地に入れなかったことを取り上げました。
きょう取り上げた個所は、彼らが入ることが許されなかった安息について、さらに論じています。
神の言葉を軽んじ、信じることをしなかったイスラエルの民は、約束された安息の地に入ることができませんでした。そのことは、安息の約束そのものが無効とされてしまったということなのでしょうか。「そうではない」と「ヘブライ人人への手紙」の作者は考えます。神の安息にあずかる約束は彼らの不信仰によって無効とされたのではなく、依然としてその約束は続いています。
実際のところ、約束の地に入ることができなかったのは、エジプトを奇跡的に脱出することを経験した世代の人たちでした。その後生まれた世代は、実際に約束の地に入ることができました。ただ、「ヘブライ人ヘの手紙」の作者が思い描いている安息は、約束の地カナンに入植することが究極的な目標ではありません。この手紙の11章16節で族長たちの信仰について「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」と記して、この手紙が扱っている安息が、究極的には天上の安息であることを語っています。
旧約聖書にも新約聖書にも一貫した天の安息が語られています。その約束は、旧約の民の不信仰によって消えてしまったのではありません。同じ安息の約束が今も有効に生きています。
ですから、一方では安息に入る望みが今でも残されているという希望が語られますが、しかし、手紙の読者に対して、希望があるからこそ「取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように」と警告の言葉を記します。
前にも言いましたが、この手紙の著者は牧会的な配慮からこの手紙を書いています。神の約束を示しながら、希望に生きて目標に到達することができるようにと一方では読者たちを励まします。と同時に、怠慢や不注意から、かつてのイスラエルの民が踏み誤った道を進んでしまうことがないようにとの警告の言葉も忘れません。ただ、その警告の言葉も決して上から目線ではありません。自分自身も含めて「わたしたちは気をつけましょう」と語っています。
「気をつけましょう」と訳されている言葉は、「恐れましょう」という意味の言葉です。「恐れ」とは「恐怖心」のことではありません、神の御前に「良い意味での恐れ」がないところには、必ず信仰があいまいになってしまいます。神を恐れつつ、信仰者として共に歩むこと、そのことを読者と共に願っています。
その上で、過去のイスラエルの人々の罪の問題点を振り返ります。それは、彼らには福音が知らされていなかったのではありません。同じように福音が語られていたのに、それを信仰をもって受け取ることができなかったというところに問題があったのです。神が語る言葉と聴く自分たちとを信仰によって結びつけることができなかったからだと、問題を指摘しています。
もちろん、この手紙の著者は、手紙の読者たちがすでに信仰を持っていることを知っています。そうであればこそ「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです」と大胆に語っています。
「あずかることができるのです」と新共同訳は翻訳していますが、ここはできるかできないかの可能性のことを言っているのではありません。「信じたわたしたちは、この安息に入っています」という事実を述べているのです。
そうすると、先ほど述べた、この安息が天上の、未到達の安息であるということと矛盾しているように聞こえるかもしれません。確かに完全な安息という意味では、いまだそれを得ているとは言えないかもしれません。しかし、この地上には安息が全くないというわけではありません。
事実、神は創造の業を終えて7日目に安息に入られました。この安息はそういう意味ですでに実現しています。キリストの救いの御業を信仰によって自分と結びつける人には、すでにこの神の安息に入れられているのです。
しかしそれにもかかわらず、このわずか5節ほどの間に、二度も「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と語る詩編95編の神の怒りの言葉が記されていることを、決して軽んじてはなりません。
信仰を離れていってしまう人がいる現実は、決して過去の話ではありません。この手紙の中にも何度か信仰から離れていってしまうことへの警告が出てきます。それくらい警戒すべきことです。それは個人の頑張りでどうにかなるという問題ではないことをこの手紙の著者は誰よりも知っていたことと思います。そうであればこそ、この警告の言葉を他人事と考えず、そうかといって自分一人で抱え込むこともせず、共に恐れをもって励ましあいながら進むことが大切なのです。