聖書を開こう 2021年11月18日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  人となった大祭司キリスト(ヘブライ2:11-18)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 11世紀の神学者で、カンタベリーの大司教であったアンセルムスの著作に『Cur Deus Homo』(なぜ神は人となり給うたのか)という本があります。人間の理性にとって、キリスト教の教えが最も難解と思われる点は、神が人となってこの世界に現実に来られたこと、しかも、十字架の死を遂げられたことにあります。

 なぜそんなことがあるのか、このことをどんなに人間の知性に訴えて説明しようとしも、完全な納得を得ることはできません。もしできるのであれば、伝道とは詰まるところ、知的な説得に終始してしまいます。そして、信仰とは詰まるところ知的な同意あるいは承認を得ることということになってしまいます。

 しかし実際に人が信仰に入るのは、理詰めで物事を考えた結果とは限りません。どこかで理性を突き抜けて、真理を受け入れる心が与えられ、初めて信仰に至るというのが実際です。理詰めで考えた結果、信仰にいたるのではなく、逆説的ですが、信じる心が与えられるからこそ、知的な説明に納得がいくのです。もし、神学に意味があるとすれば、それは信仰を持たない人にとってではなく、既に信仰を持った人が、その信仰をより深めるためにこそ神学を学ぶことに意味があります。

 『ヘブライ人ヘの手紙』も神学的な論文ともいえる内容を持った書物ですが、そこに書かれていることは、信仰を前提として読まなければ、ちんぷんかんぷんな議論としか映らないと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 2章11節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 『ヘブライ人への手紙』はこれまでずっと天使に対する御子イエス・キリストの優位性、比類のない卓越性について語ってきました。先週取り上げた個所では、来るべき世界が天使の支配下にあるのではなく、まさに御子のもとに置かれているということを、詩編8編から引用して、その証明を試みました。

 その中で、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスについて記すこの詩編の言葉を、どう理解するかは、イエス・キリストの救いの御業全体を理解するうえで、この手紙の著者にとってはとても重要なカギとなる言葉でした。つまり、キリストの十字架の苦しみと死を通してこそ、救いの御業は成し遂げられ、このことを通して、初めて「栄光と栄誉の冠を授けられた」と手紙の著者は理解するからです。それはイエス・キリストお一人のことを指しているのではありません。キリストに結ばれて救いにあずかる人々もまた、栄光と栄誉の冠を授けられ、神が望むまことの人間として完成を迎え、この詩編の言葉が本来の意味で成就するからです。

 きょうの個所では、この御子イエス・キリストと救われた人々との一体性をさらに掘り下げて、このことが救いの完成にとってどれほど意義深いことかを説明しています。

 この苦難を通して栄光に入られたキリストと救われた人々との一体性を、まず、聖書を引用して解き明かします。ただし、今のわたしたちにとってその引用の仕方は、一読してわかるほど明快ではありません。ちょっとした聖書注解書の解説を読んでも、数ページに渡る解説が続きます。しかし、この部分が理解できないとしても、2章14節以下に展開されることがらは明快です。

 14節と15節では、なぜ神の子イエス・キリストは、人間と同じように血と肉とを備えて来られたのか、という問題を扱っています。それはご自身の死によって死を滅ぼし、死の恐怖のために奴隷の状態にある者たちを解放するためであったと述べられます。正確に言えば、キリストの死が死を克服したのではなく、一度は死んで死の支配下に置かれたキリストが、復活されたことを通して、死に打ち勝たれ、死を克服されたのです。このことのために、人間と同じようにキリストは血と肉とを実際に備えられたのです。

 もっとも、死によって死を滅ぼすという言い方にしろ、復活によって死の力が克服されたというにしろ、そのこと自体が説明不能な事柄かもしれません。キリストの復活を目撃したことのないわたしたちにとっては、こういう議論にリアリティを感じることがないかもしれません。しかし、キリストに望みをかけ、しかし、キリストの十字架を目の当たりにして失望と落胆しか感じることのできなかった弟子たちにとっては、復活されたキリストとの出会いこそが、リアリティのある答えそのものでした。そうであればこそ、死を恐れることなく、福音の宣教のために邁進することができました。

 実際、弟子たちは、なぜ神の子イエス・キリストは、人間と同じように血と肉とを備えて来られたのか、という問いから出発して、物事を論理的に考えたわけではありません。むしろ逆で、死に支配されている人間の罪の現実と、死の力を打ち破って復活されたキリストとの出会いを通して、なぜ神の子イエス・キリストは、人間と同じように血と肉とを備えて来られたのか、その重要さを考えるようになったのです。

 その問いを問い続ける中で、大祭司としてのキリストの働きがいっそう注目されるようになりました。この手紙の中で大祭司としてのキリストについて詳しく論じるのは、もうすこし後になってからですが、それを先取する形で、大祭司としてのキリストをここに紹介しています。

 人間の大祭司と同じように、キリストもまた血と肉とを備えて、仲保者として罪の贖いの執り成しをします。どの大祭司もそうですが、民を代表してこの勤めにあたるからです。その意味で大祭司はそれが代表する民と一体です。キリストは民とまさに一体となってくださり、民を罪の縄目からひきあげてくださるお方です。

 キリストは憐れみ深い大祭司と呼ばれますが、それは、罪は別として、キリストご自身が試練を受けて苦しまれたからこそ出てくる憐れみ深さです。人間の弱さを知らないお方ではありません。試練の苦しみを深く知っておられるお方です。そうであればこそ、憐れみ深く罪人と接してくださるお方です。

 また、この大祭司は忠実な大祭司であると呼ばれます。それはあらゆる試練の中にあって、しかも十字架の死にいたるまで、その勤めを全うしてくださったからです。

 このような大祭司キリストをわたしたちはいただいているのです。いえ、このような大祭司キリストが、わたしたちを兄弟と呼んでくださり、このような大祭司の執り成しの結果、わたしたちは神の子たちと呼ばれ、救いにあずからせていただいているのです。

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