聖書を開こう 2021年11月11日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  救い主の苦難と栄光(ヘブライ2:5-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
 聖書は難しいという言葉をよく耳にします。確かにそういう一面があることは否めません。しかし、これは聖書に限ったことではありません。漫画の世界でも同じです。何十巻にもわたる連載漫画を、途中から拾い読みして理解できる人がいないのと同じです。

 登場人物の名前や登場人物の相関関係、そこに描かれている世界観は、最初から読んでこそわかるものです。

 『ヘブライ人への手紙』は1通の手紙とはいえ、そこに描かれている事柄は、旧約聖書ばかりか、新約聖書の内容とも密接にかかわっています。さらにはこの手紙の最初の読者と手紙の著者とが共有している時代背景もあります。そういう意味で、この手紙は誰にでもわかりやすい手紙ではありません。

 きょう取り上げようとしている個所も、使われている単語や文章そのものは簡単なように見えますが、結局、何のために何が言いたいのか、となると、一読しただけではつかみきれない内容です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 2章5節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。

 天使に対する御子イエス・キリストの優位性についての議論は、今日の個所でも続きます。すでに何度も触れましたが、この議論は、当時の世界観に生きる人たちにとっては、とても大切な議論でした。ややもすれば、天使たちの方がキリストよりも上にいるような誤解が生じる世界観が現実にあったからです。

 きょう取り上げた個所の冒頭で、「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかった」と述べています。この言葉の背景には、現在の世界は天使たちの支配下にあるという思想があります。

 例えば、ダニエル書10章には「ペルシアの天使長」や「ギリシアの天使長」という言葉が出てきます。それぞれの国にはその国を守る、あるいはその国の支配をゆだねられている天使がいるという考えです。同じダニエル書の10章には「おまえたちの天使長ミカエル」という表現が出てきますから、選民であるイスラエルは天使長ミカエルの保護のもとにあるということです。

 死海文書で知られるようになったクムラン教団の『戦いの書』の中には、「神々の中にミカエルの統治を」という言葉さえ見られます(『戦いの書17:7』)。

 しかし、『ヘブライ人への手紙』の著者は、来るべき世界は、天使たちにではなく、万物の相続者である御子イエス・キリストの統治のもとに置かれると教えます。

 ところで、『ヘブライ人ヘの手紙』が語る「来るべき世界」とは、どのような世界を言っているのでしょうか。これは、新約聖書全体が語る「来るべき世」について考えるときにも重要です。
 イエス・キリストご自身、ガリラヤ宣教の初めに「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と宣言し、その活動の中で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)とおっしゃいました。また、新約聖書では、死人の中からよみがえって天に昇られたキリストは、父なる神の右に座しておられるお方として描かれています(エフェソ1:20)。その意味では、キリストの到来とともにキリストの支配はすでに始まっているということができます。

 しかし、同時に、キリストは将来再び権威をもってこの地上にやってこられ、生きている者と死んだ者とを裁かれるお方として描かれます(マルコ13:26-27、2テモテ4:1)。その時まで神の国の完全な意味での完成は、まだ途上にあるということができます。しかし、その支配は再び覆されてしまうような危ういものでは決してありません。

 この「すでに」と「まだ」との間に生きているわたしたちにとっては、キリストの支配を現実に感じることは難しいかもしれません。そうであればこそ、この手紙の著者は正直にこう語っています。

 「しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」(ヘブライ2:8)

 ところで、話が前後しますが、来るべき世界を御子の支配のもとに置かれたことについて、この手紙の著者は詩編8編から引用して、このことが神のみ旨であることを証します。

 「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」

 詩編8編が本来語っているのは、御子イエス・キリストについてではなく、人間についてであることは明白です。しかし、この手紙の著者は、そこに記されている「人の子」という言葉をキーワードとして、これを御子イエス・キリストに適用しています。確かに、新約聖書の中で「人の子」といえば、イエス・キリストご自身がご自分を指して使う言葉でした。

 一見強引に見える適用ですが、最初のアダムが罪のゆえに万物を正しく治めることができなかったのに対し、最後のアダムであるキリストにこの詩編の言葉の成就を見たということは、とても意義深いことです。というのも『ヘブライ人ヘの手紙』の中で、常に救い主であるキリストは、人間とは何のかかわりもない超人的存在ではなく、救われた者たちを兄弟と呼び(ヘブライ2:11)、彼らと同じように血と肉を備え(同14節)、罪は犯されなかったが、あらゆる点で、わたしたちと同様に試練に遭われたお方として描かれているからです(同4:15)。そういう意味でキリストは最後のアダムと呼ばれるにふさわしいお方で、このお方においてこそ詩編8編は究極の成就を迎えます。

 しかも、「わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授けた」と語るこの詩編に、キリストの十字架の苦難と復活の出来事を重ね合わせて、「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであった」(ヘブライ2:10)と結論します。苦難を通して栄光にあずかるメシアこそ、ふさわしいメシアの姿であると考えるのは、『ヘブライ人ヘ手紙』ばかりではありません。そもそも、復活のイエス・キリストご自身が弟子たちに聖書を解き明かしながらこう語っています。

 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ24:25-26)。

 キリストが受けた苦難は、キリストの権威を損ねるどころか、栄光に入られるためにふさわしい出来事だったのです。そしてそれは罪を犯した人々の贖いにとって欠くことのできない救いの御業だったのです。

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