聖書を開こう 2021年11月4日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  聞いたことに注意を(ヘブライ2:1-4)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神のことばである聖書を重んじる、という伝統はプロテスタント教会の大きな特徴です。聖書があらゆる国の言語に加速的に翻訳され始めたのも、16世紀の宗教改革以降の出来事です。もちろん、それを可能にしたのは、グーテンベルクによる活版印刷の発明という技術的な進歩も一因しています。しかし、印刷技術があっても、宗教改革のモットーの一つである「聖書のみ」という主張がなければ、ここまで大きな聖書翻訳事業は進まなかったことでしょう。

 もちろん、聖書を重んじる伝統はユダヤ教の中にもありました。そうでなければ、これほどに正確な写本や古代語の翻訳を残すことはなかったでしょう。同様にローマ・カトリック教会も聖書を正典として重んじてきました。何よりもラテン語ヘの翻訳はその表れです。ただ、プロテスタント教会と違うのは、「聖書のみ」の原則ではなく、それぞれ受け継いできた「伝統」をも聖書と並んで重んじてきたという点です。

 ところで、キリスト教会が「聖書」と呼ぶものと、ユダヤ教徒が正典として持っている「聖書」とは、その範囲が異なっています。キリスト教会はユダヤ教徒たちが正典として持っている「聖書」を「旧約聖書」と呼び、「新約聖書」と呼ばれる27巻を加えて、全部で66巻を「聖書」と呼んでいます。

 しかし、違いはただ収められている書物の数が違うというばかりではありません。聖書に対する理解も違います。イエス・キリストは『ヨハネによる福音書』の中でユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)。

 もちろん、この場合の「聖書」とは旧約聖書を指しています。旧約聖書を通して神が語られてきたことは、結局のところ、神の子キリストについてであるということです。その『ヨハネによる福音書』は、イエス・キリストこそまことの命であることを証しています(ヨハネ11:25; 14:6; 17:2など)。旧約聖書が証しているイエス・キリストを通してこそ永遠の命にあずかることができるということです。

 さらに、新約聖書が描く神の子キリストは、神のことばそのものであり(ヨハネ1:1)、今学んでいる『ヘブライ人への手紙』によれば、神の究極的な啓示です。そういう意味で、聖書を読むということは、他でもなく、この神の言葉であるキリストに聴くことへとつながって行きます。もし、キリストが脇へ行ってしまうような聖書の読み方をしているとすれば、それは、神の言葉に聴いているとは言えません。

 きょうも前置きが長くなってしまいましたが、御子イエス・キリストに聴く大切さを『ヘブライ人ヘの手紙』から学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 2章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。

 前回の学びでは、御子イエス・キリストが天使たちよりもはるかにまさった存在であることを、旧約聖書の証言を通して学びました。神の子イエス・キリストと天使とどっちが上かを議論することは、あまりにも答えが明白で、今を生きるクリスチャンにとっては退屈な議論のように感じられるかもしれません。そもそも、この二つを対比したり、優劣をつけるという必要性を感じないというのが正直な思いではないでしょうか。

 しかし、現代のクリスチャンにとってはそうかもしれませんが、考えてもみれば、キリストも神々も天使も悪魔も妖怪もありとあらゆるキャラクターが登場するゲームや漫画の世界に染まって生きている人にとっては、キリストの優位性を理解してキリスト教に入信することは、意外とハードルが高いのかもしれません。もちろん、そういう人たちに対して、『へブライ人への手紙』が試みているように、旧約聖書の証言から論証を試みても説得力があるとは思えません。読み手が旧約聖書に親しんでいるからこその議論です。

 それはさておき、今日取り上げた個所は、御子イエス・キリストが上か、それとも天使たちが上か、という議論の結論から導き出される大切な勧めの言葉が記されています。

 いえ、どちらが上か下かの話ではなく、キリストの比較にならないほどの優位性こそが『ヘブライ人への手紙』の著者の結論で、それは決してどうでも良い話ではありません。御子イエス・キリストが救いの御業において並外れて卓越しているということの上に、わたしたちの信仰生活がかかっているからです。そこから脇へと押し流されるようなことがあってはならないと、この手紙の著者は真剣に訴えているのです。

 前回も少し触れましたが、ギリシア語の「天使」という言葉は「告げ知らせる者」「メッセンジャー」を意味する言葉から来ています。その言葉の通り、天使の役割の一つは、神の御心を人々に告げ知らせることにありました。例えば、イエスの母マリアがまだヨセフと結婚する前に、天使ガブリエルが現れて、これから起こる神の御心をマリアに告げ知らせました。その内容はマリアにはとても受け入れがたいことでしたが、それでもマリアは御使いの言葉を受け入れました。そういう意味では、天使が告げることに従順であることは大切です。というのも、そのメッセージの権威はあくまでもそれを語らせる神にあるからです。

 先ほどお読みした個所に「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば」という言葉が出てきました。2章2節の言葉です。

 ここで言われている「天使たちを通して語られた言葉」というのは、具体的にはモーセの律法を指す言葉です。確かに『出エジプト記』には律法が天使たちの仲介を通してモーセに与えられたという記述はありません。しかし、『使徒言行録』7章53節に記されたステファノの言葉によれば、律法が天使たちを通して与えられたと理解されています(同章38節も参照)。同様にパウロも『ガラテヤの信徒たちヘの手紙』の中で、律法は「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたもの」と語っています(ガラテヤ3:19)。

 もし、仲介者に過ぎない天使たちを通して与えられた律法が、その違反者に対して当然の罰を与えるのだとすれば、比較にならないほど優位にある御子を通して与えられた福音から離れていってしまう者に対する報いは、いったいどうなるでしょう。そもそも唯一の救いの道から離れていってしまうならば、他に救いの道があるはずはありません。残っているのは、負いきれない自分の罪を自ら背負って神の裁きの座に立つよりほかはありません。

 かつてペトロとヨハネはユダヤ最高法院の議員たちを前にして「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と堂々と弁明しました(使徒言行録4:12)。

 イエス・キリストをおいて他に救いはないという真理は、この『ヘブライ人への手紙』の著者も共有している信仰です。それはただの知識としてではなく、まさにそのことの上にわたしたちの信仰の歩みが成り立っているのです。

 「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」(ヘブライ2:1)

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