聖書を開こう 2021年10月28日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  天使にまさる御子イエス(ヘブライ1:5-14)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書には「天使」とか「御使い」と呼ばれる、神のもとから遣わされる霊的な存在が時々登場します。英語では「エンジェル」と呼ばれますが、それはギリシア語の「伝令」(メッセージを伝える者)を意味する「アンゲロス」という言葉から来ています。

 天使の存在は、ギリシア語で書かれた新約聖書ばかりではなく、旧約聖書にも登場します。ヘブライ語では「遣わされた者」を意味する「マラーク」という言葉が使われています。

 先ほど天使のことを「霊的な存在」と簡単に言ってのけてしまいましたが、旧約聖書に登場する「マラーク」という言葉は、本来の意味は「遣わされた者」という意味ですから、「人間」である場合もあります。例えば、イザヤ書44章26節に出てくる神からの「使者」は人間である「預言者」を指しています。

 また創世記19章で、ソドムにいたロトのもとを訪ねてきた二人の御使いは、ロトと一緒に食事をしたり(創世記19:4)、ロトに手を伸ばして家の中に引き入れたり(創世記19:10)、まるで人間のように肉体をもった存在のように描かれています。そうかと思うと、その二人の御使いはいつの間にか姿を消し、代わりに主ご自身がロトに語りかけます(創世記19:17)。まるで、さっきまでいた御使いたちは、主なる神ご自身が人の姿を借りて現れたかのような書きっぷりです。

 そんな事があってかどうかはわかりませんが、少なくとも新約聖書の時代のユダヤ人たちには、天使の存在を肯定する人たちと、否定する人たちに分かれていたようです。使徒言行録23章8節にはこう書かれています。

 「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」

 確かに「律法の書」と呼ばれる「モーセの五つの書」だけからは、天使の存在を論じるのは難しいのですが、新約聖書にも登場する大天使ミカエルやガブリエルの名前は、それぞれ旧約聖書の中にすでに登場しています(ダニエル 10:13; 12:1; 8:16; 9:21)。詩編には天使や天の軍勢は当たり前のように登場しています。

 そして、イエス・キリストご自身もパウロも、天使たちの存在を当然の前提のように語っています(マルコ12:25; 13:27; ローマ8:31; ガラテヤ3:19; 1テサロニケ4:16)。新約聖書全体で見ても、天使の存在に全く触れていない書物は、数えるくらいしかありません。

 しかし、それにもかかわらず、「天使」に関して、何かまとまったことを新約聖書から引き出そうとしても、ごく限られたことを断片的に書くことしかできません。それも当たり前のことで、新約聖書が書かれたのは、キリストを通して成し遂げられた救いの御業を告げ知らせるためであって、天使について書き記すことが目的ではないからです。

 ところが、新約聖書が書かれたのとほぼ同時代のユダヤ教の書物や、いわゆる聖書正典とは認められなかった「外典」や「偽典」と呼ばれる書物には、興味をそそるような天使についての話が出てきます。

 前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、きょう取り上げようとしている個所には、イエス・キリストが天使たちよりも勝っていることが、長々と論証されています。今の私たちから考えると、退屈な議論のようにも感じられます。しかし、天使をめぐる当時の様々な議論を思うと、キリストよりも天使の方が優位に立っているという議論が出てきてもおかしくはありません。そのことを頭の片隅において、きょうの個所を読んでみたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 1章5節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 いったい神は、かつて天使のだれに、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。また、天使たちに関しては、「神は、その天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」また、こうも言われています。「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。」神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

 きょう取り上げた個所には、丁寧に聖書を引用しながら、天使に対するキリストの優位性が論じられています。その聖書の引用は、全部で7個所にも及びます。そのうちの5個所は詩編からの引用です。

 もちろん、ヘブライ人への手紙が書かれた時代には、新約聖書と呼ばれるようなものは存在しませんでしたから、すべては旧約聖書から論じるよりほかはありません。しかし、それでも、十分な論証をヘブライ人への手紙の著者は果たします。

 ここで、引用された聖書の個所を今詳細に論じることは、時間的に無理がありますので、割愛させていただきますが、要は、キリストは特別な意味で神の御子であり、天使たちは仕える霊にすぎないという決定的な違いがあるということです。

 しかし、それにしても、なぜここまでこだわって、天使に対するキリストの優位性を強調しなければならなかったのでしょうか。天使たちを崇拝してキリストよりも上だと主張する人たちがいたのでしょうか。

 確かにコロサイの信徒へ手紙の2章18節には「天使礼拝にふける者」という言葉が出てきます。そのようなことを行う者たちが教会の中に、あるいは外に増え続ければ、やがてはキリストを天使たちよりも下だと言い出す人が出てきても不思議ではありません。そこまでは言わないにしても、キリストの存在が薄れていってしまう危険があります。

 もっとも、コロサイの信徒への手紙の中に出てくる「天使礼拝」という言葉は、「天使たちを礼拝する」という意味ではなく、黙示録の中で描かれるような「天使たちが捧げる礼拝」という意味だと思います。ですから、ヘブライ人への手紙が問題にしている状況とは少し違うように思います。

 むしろここで想定されているのは、死海写本で有名になったクムラン教団の教えと関係があるのではないかと思われます。クムラン教団の天使論は旧約聖書の天使についての記述よりもはるかに複雑であることが知られています。そして、死海文書の中に記されるメシアについての記述には、ダビデ系の王的なメシア像と、アロン系の祭司的なメシア像があることが知られていますが、クムラン教団では、このふたつのメシア像のうち、祭司的なメシアの方が優位であったことが知られてます。そしてさらに、この祭司的なメシアよりも大天使ミカエルの方が優位に立っていることを示す記述も出てきます。

 とすると、このような考えがユダヤ人たちの中に浸透し、ユダヤ人クリスチャンたちにも影響を与えたとしても不思議ではありません。そうであるとするなら、ヘブライ人への手紙の中で、天使に対するキリストの優位性が強調されるのもうなずけます。それは単にどっちが上かという問題にとどまりません。救いについて、誰に耳を傾けるべきなのか、という問題につながってきます。まさに次回取り上げる2章の冒頭に記された勧めの言葉につながっていくのです。

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